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全国で出会える歴史人物

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 人物一覧
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51  野口英世工事中
Noguchi-Hideyo (医師)
苦学の末、20歳で医師免許を取得し、後に細菌学の研究で様々な業績を残しました。ガーナのアクラで黄熱病の病原と治療法を研究中に黄熱病に感染し、発病、昭和3年(1928)に51歳で亡くなりました。
50  高山右近工事中
Takayama-Ukon (キリシタン大名)
信長や豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉のキリシタン弾圧政策に対して、地位と財産を捨てて信仰を守る道を選びました。慶長19年(1614)のキリシタン追放令を受けて、フィリピンのマニラに追放され、その地で没しました。
49  勝道工事中
Shodo (日光の開山)
下野介、若田高藤と豪族、吉田連氏の娘、明寿の子として、下野国南高岡(栃木県真岡市)に生まれました。天平宝字6年(762)に下野薬師寺の如意僧都に師事して得度受戒。延暦元年(782)に日光山に入り、その後、四本龍寺(輪王寺)を建立しました。
48  岡倉天心工事中
Okakura-Tenshin (日本美術院の設立者)
東京開成所(東京大学の前身)に入り、そこの教師だったアーネスト・フェノロサの助手になりました。27歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の校長となりましたが、やがて退職。その後は日本美術院を設立し、横山大観らとともに活躍しました。
47  上杉鷹山
Uesugi-Yozan (米沢藩中興の祖)
米沢藩前藩主の重定の時代には藩の財政は破たん寸前でしたが、質素倹約のうえ、さまざまな産業をおこして米沢藩の財政を立て直すとともに、天明の大飢饉では、東北地方において、唯一米沢藩だけ一人の餓死者も出さなかったという善政を敷きました。
46  谷風
Tanikaze (第4代の横綱)
第伊達関(のちに達ヶ関)として初土俵。安永10年(1781)三月場所で大関昇進。連勝記録は63で双葉山に次いで二位です。勝率9割5分という圧倒的な強さだったそうです。
45  宮本武蔵
Miyamoto-Musashi (剣豪、二天一流の祖)
13歳の時に初めて有馬喜兵衛なる人物と試合を行い、29歳までに60余回もの試合を行いましたが、すべて勝ったといわれています。寛永20年(1643)から現在の熊本市にある「霊巌洞」で「五輪書」を執筆しました。
44  オオクニヌシノミコト
Okuninushinomikoto (出雲大社の縁結びの神)
「因幡の白うさぎ」の話で白うさぎを介抱し、傷を癒した神です。白うさぎはそのお礼にと、呪力でヤカミヒメと結ばせました。しかし、そのことで兄の八十神たちから妬まれ、二度も殺されましたが、その都度、母の御祖命(ミヤノミコト)の力で復活。
43  中江藤樹
Nakae-Toju (「近江聖人」とたたえられた学者)
はじめ米子藩主加藤貞泰に仕え、伊予国大洲へ国替えになった際も同行しました。その後、脱藩して近江へ帰郷。自宅で私塾を開いていましたが、屋敷に藤があったことから藤樹とよばれ、塾の名も藤樹書院とよばれるようになりました。
42  池田勇人
Ikeda-Hayato (昭和時代の政治家、元内閣総理大臣)
昭和35年(1960)に岸信介の後を継いで内閣総理大臣に就任しました。在位中は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長を推し進めました。また、東京オリンピックを実現させました。
41  西郷隆盛
Saigo-Takamori (維新の三傑のひとり)
上野公園にある西郷隆盛像です。薩摩藩の下級武士の子として生まれました。本名を隆永といいます。大久保利通、木戸孝允とともに、「維新の三傑」といわれています。
40  加藤清正
Kato-Kiyomasa (秀吉子飼いの武将)
秀吉の子飼いの武将として、賤ヶ岳七本槍のひとりにもかぞえらえた人物です。築城の名人として知られ、複雑な縄張りと扇の勾配を持つ高石垣が見事な熊本城を築城し、肥後一国の主になりました。
39  本多忠勝
Honda-Tadakatsu (徳川家康譜代の武将)
徳川家康譜代の武将。関ヶ原の戦いをはじめ、家康が参加した戦いのほとんどにつき従って、多くの武功をあげました。「家康に過ぎたる者」とまでいわれた武将でした。
38  藤堂高虎
Todo-Takatora (信長・秀吉・家康に仕えた武将)
信長・秀吉・家康と主君を変えながら戦国を生き抜いた武将。築城の名人としても知られ、伊賀上野城、今治城、宇和島城、安濃津城など様々な城の築城を手掛けました。
37  井伊直政
Ii-Naomasa (徳川家康譜代の武将)
家康四天王のひとりとうたわれた人物。徳川家康の譜代として様々な戦いに参加しましたが、その際は井伊の赤備えとして恐れられていました。関ヶ原の戦いで負傷し、その傷がもとで亡くなりました。
36  吉川経家
Kikkawa-Tsuneie (戦国時代の武将)
中国地方の雄、毛利家の親戚筋に当たる人物。秀吉の鳥取城攻めでは城にこもって抵抗しますが、最後は兵糧攻めにあい、守兵の命と引き換えに自害して果てました。
35  織田信長
Oda-Nobunaga (戦国時代の武将)
桶狭間の戦いで頭角を表した尾張の武将。破竹の勢いで天下統一を目前にしましたが、家臣の明智光秀の謀反にあい、京都の本能寺で自害しました。
34  千代
Chiyo (山内一豊の正室)
山内一豊の妻として若いころから内助の功を発揮し、夫の出世を支えました。一豊との間には一女をもうけましたが、天正大地震の時に死亡しています。また、「千代紙」の由来となった人物といわれています。
33  山内一豊
Yamauchi-Kazutoyo (初代土佐藩主)
秀吉の与力として織田氏に仕えていました。北近江長浜城主、遠江掛川城主を経て、関ヶ原の戦いの功により土佐一国を与えられました。山内氏はその後土佐藩を治め、明治維新まで続きました。
32  お市の方
Oichi (織田信長の妹)
信長の妹。初め北近江の浅井長政に嫁ぎましたが、信長に攻められて浅井氏は滅亡しました。その後、柴田勝家に嫁ぎましたが、勝家が秀吉に敗れたため、ともに北ノ庄にて自害しました。
31  柴田勝家
Shibata-Katsuie (元織田家筆頭家老)
織田信長の重臣。筆頭家老の地位にありましたが、本能寺の変で主君が討たれてからは羽柴秀吉と対立しました。最後は、越前北ノ庄(福井県福井市)にて秀吉軍の包囲を受け、自害しました。
30  寺坂吉右衛門
Terasaka-Kichiemon (元赤穂藩足軽)
赤穂浪士。仇討ちの義盟に参加した唯一の足軽です。吉右衛門は、討ち入りの前後(実際に吉良邸への討ち入りに参加したかは不明)に浪士たちと離れて別行動をとりました。別行動の理由には諸説あります。
29  大石瀬左衛門
Oishi-Sezaemon (元赤穂藩士)
赤穂浪士。大石内蔵助の遠縁にあたります。江戸城松の廊下での浅野内匠頭の刃傷事件の時には、参勤交代の供として江戸にいました。瀬左衛門は、原惣右衛門らとともに主君の切腹を告げる第二陣の急使のひとりでした。
28  不破数右衛門
Fuwa-Kazuemon (元赤穂藩士)
元赤穂浪士。浅野家の改易前から内匠頭の勘気を受けて浪人になっていましたが、それでも義盟に加わりました。討ち入りの時は裏門隊として屋外に配置されましたが、戦闘が始まると持ち場を離れて戦いました。しかし、最もめざましい働きをしたといわれています。
27  吉田忠左衛門
Yoshida-Cyuzaemon (元赤穂藩士)
赤穂浪士。足軽として唯一義盟に加わった寺坂吉右衛門の主でもあります。大石内蔵助に次ぐナンバー2として、浪士たちをよくまとめました。討ち入りの時は裏門隊の大将、大石主税(内蔵助の嫡男)を補佐しました。
26  堀部安兵衛
Horibe-Yasube (元赤穂藩士)
赤穂浪士。堀部弥兵衛は義父にあたります。高田馬場の決闘で見出された弥兵衛が、娘のほりと娶らせて婿養子としました。吉良邸討ち入りの時は、裏門隊に属して大太刀を持って戦いました。当時の年齢が壮年の30代前半だったということもあり、最も活躍した人物のひとりでした。
25  堀部弥兵衛
Horibe-Yahe (元赤穂藩士)
赤穂浪士。吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の中では最年長の義士です。弥兵衛は表門隊の一員として討ち入りに参加し、槍を持って表門の警戒にあたりました。
24  片岡源五右衛門
Kataoka-Gengoemon (元赤穂藩士)
赤穂浪士。浅野内匠頭切腹の際に最後の対面をした人物です。内匠頭が切腹に向かう時に源五右衛門と無言の別れをしました。吉良邸討ち入りのときは表門隊のひとりとして戦いました。
23  原惣右衛門
Hara-Soemon (元赤穂藩士)
赤穂浪士。300石扶持。刃傷事件の時は警護留守役で江戸にいました。この時、赤穂への第一陣の急使は刃傷事件を伝え、惣右衛門ら第二陣は内匠頭の切腹を伝えました。
22  大石主税
Oishi-Chikara (大石内蔵助の嫡男)
赤穂浪士。播磨国赤穂藩家老、大石内蔵助の嫡男で、名を良金といいます。赤穂浪士の吉良邸討ち入りのときは裏門隊の大将を務めました。吉良邸討ち入りの翌年、幕府の命によって切腹しました。
21  大石内蔵助
Oishi-Kuranosuke (赤穂藩家老)
赤穂浪士。播磨国赤穂藩家老。内蔵助とは通称で、名を良雄といいます。赤穂浪士の吉良邸討ち入りのときの首謀者です。吉良邸討ち入りは成功し、見事主君の仇を討ちましたが、その翌年、幕府の命によって切腹しました。
20  王直
Wanchi (貿易商・倭寇の首領)
中国安徽省黄山市生まれ。松浦隆信に招かれて平戸にやってきました。天文12年(1543)の鉄砲伝来にも関わっていたといわれています。倭寇の首領としても有名で、徽王と称して各地で密貿易などを行いましたが、後に中国で捕まり、処刑されました。
19  リチャード・コックス
RichardーCocs (平戸イギリス商館長)
平戸イギリス商館長として日英貿易に力を尽くしました。ウィリアム・アダムスより贈られた甘藷(かんしょ・サツマイモのこと)を日本で初めて栽培したことでも知られています。この最初の甘藷が植えられた菜園は長崎県の指定史跡に指定されています。
18  フランシスコ・ザビエル
Francisco-Xavier (イエズス会宣教師)
ナバラ王国(現在はスペインの一部)のザビエル城主の子として生まれ、イエズス会のイグナチウス・ロヨラと共にカトリックを海外に布教するために努力しました。天文18年(1549)に来日し、各地で布教活動を行いました。
17  ジャックス・スペックス
Jacques-Specx (初代平戸和蘭商館長)
平戸にオランダ商館が設置された時、初代館長に就任しました。その後は、平戸を拠点とした海外貿易交流に力を尽くしたため、貿易港平戸の発展に大きく寄与した功労者といえます。
16  ウィリアム・アダムス
William-Adams (航海士・徳川家康の外交顧問)
イギリス出身の航海士。慶長5年(1600)、遭難したリーフデ号で日本に漂着。徳川家康の外交顧問になりました。日本名を三浦按針(みうらあんじん)といいます。按針とは航海士の意味です。
15  山田顕義
Yamada-Akiyoshi (日本大学の創設者)
長州(山口県)出身。あの吉田松陰の松下村塾で、伊藤博文、高杉晋作、久坂玄瑞らと学び、尊王攘夷運動に参加しました。明治維新後は政府に参加し、また、日本法律学校(現、日本大学)などの創設に携わりました。
14  尾崎行雄
Ozaki-Yukio (憲政の神様とよばれた政治家)
相模(神奈川県)生まれの政治家。犬養毅らと憲政擁護運動をおこし、憲政の神様といわれました。文部大臣、司法大臣、東京市長などを歴任しました。
13  板垣退助
Itagagi-Taisuke (自由民権運動をおこした政治家)
土佐(高知県)生まれの政治家。戊辰戦争に活躍しました。明治維新後は参議になりましたが、薩長中心の政治に反対しました。また、民選議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動を推し進めました。
12  倉場富三郎
Kuraba-Tomisaburo (グラバーの実子)
グラバーと日本人妻ツルとの子として生まれました。イギリスと日本との交流につとめ、内外クラブを設立しました。リンガー商会に入社、さらにグラバー図譜とよばれる魚類図鑑をつくりました。
11  トーマス・グラバー
Thomas-Blake-Glover (幕末の実業家)
長崎を代表する観光地であるグラバー園で有名です。安政6年(1859)来日。長崎で貿易業を営むかたわら、造船・掘炭・喫茶などの事業をおこし、日本の産業発展に貢献しました。
10  桂小五郎
Katsura-Kogoro (幕末・明治維新の政治家)
幕末・明治維新の政治家。長州(山口県)出身。後に木戸孝允と名乗りましたが、「情の西郷」「意の大久保」と並んで「知の木戸」と呼ばれた明治維新の三傑のひとりです。
09  結城秀康
Yuki-Hideyasu (徳川家康の次男)
徳川家康の次男でしたが結城家の養子になったため、江戸幕府二代将軍は三男の秀忠になりました。柴田勝家の旧領である越前(福井県)北の庄を福井と改め、福井城主になりましたが、まもなく他界しました。
08  二宮尊徳
Ninomiya-Sontoku (農政家)
勤勉家の象徴的存在。江戸時代の農政家。10代の頃、両親を亡くして奉公生活を送りましたが、20代の頃には荒地を開墾し、拾った苗を育てて財を成し、一家を再興しました。後に、その才が認められて幕府の役人へと出世していきました。
07  井伊直弼
Ii-Naosuke (江戸時代末期の大老)
江戸幕府末期の実力者。彦根藩主でしたが幕末の動乱に大老として抜擢されました。大老に就任後は開国などを行い、反対者を安政の大獄で処罰するなどしました。しかし、その強硬な政策は尊攘派の反感を買い、桜田門外の変で暗殺されました。
06  天草四郎
Amakusa-Shiro (一揆軍の首領)
島原・天草一揆(島原の乱)の一揆軍の首領。この天草四郎を盟主にはじまった島原の乱で、一揆側2万7千(3万7千?)は原城に立て籠もり鎮圧に来た幕府軍を散々苦しめましたがついに落城し、数人の投降者を除いて四郎をはじめことごとく殺害されました。
05  児島惟謙
Kojima-Korekata (司法官)
大津事件(来日中のロシア皇太子の暗殺未遂事件)の際、政府はロシアとの関係悪化を恐れ、大逆罪の適用を司直に求めました。これは、行政権が司法権に干渉する行為に当たり、彼は「法によって裁く」との信念で政府の要求を退け、司法権の独立を守りました。
04  福沢諭吉
Fukuzawa-Yukichi (幕末・明治の啓蒙思想家)
江戸時代末期、中津藩(大分県中津市)の藩士の子に生まれ、若くして適塾の塾長になるなど才能を発揮。幕府の遣米・遣欧使節に参加したり慶応義塾(後の慶應義塾大学)を設立したりしました。明治維新後は啓蒙思想家として活躍し、『学問のすすめ』などを刊行しました。
03  千姫
Senーhime (徳川秀忠長女)
江戸幕府2代将軍、徳川秀忠の長女。政略結婚によって7歳で豊臣秀吉と淀君の子である秀頼に嫁ぎます。しかし、大坂の陣で秀頼は戦死。その後は、本多忠刻に嫁ぎますが、まもなく死別してしまいました。
02  猿飛佐助
Sarutobi-Sasuke (忍者)
霧隠才蔵や根津甚八などで有名な真田十勇士の一人として、主君の真田幸村に仕えた甲賀忍者です。架空の人物。十勇士の中でも最も人気がある人物のひとりです。
01  豊臣秀吉
Toyotomi-Hideyoshi (戦国・安土桃山時代の武将)
尾張国の農民の子として生まれ、織田信長に仕えた後は立身出世。1582年本能寺の変の後、ついに信長の後継者としての地位を固めました。また、大坂城を築き、1590年に天下統一を達成しました。


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