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織田信長
Oda Nobunaga |
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天下統一の基礎をつくった尾張の戦国大名 |
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前 | 後 |
生没年 |
1534.06.23〜1582.06.21 |
関係人物 |
父 |
織田信秀 |
母 |
土田御前(織田信秀正室) |
正室 |
濃姫(斉藤道三の娘) |
側室 |
生駒吉乃(生駒家宗の娘)ほか |
子 |
信忠、信雄、信孝、羽柴秀勝、勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、信正、徳姫(松平信康室)、秀子(筒井貞次室)、永姫(前田利長室)、報恩院(丹羽長重室)、三の丸殿(豊臣秀吉側室、二条昭実室)ほか |
兄弟 |
信広、信勝(信行)、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利、お犬の方(佐治信方室のちに細川昭元室)、お市の方(浅井長政室のちに柴田勝家室) |
名 前 |
吉法師→織田信長 |
戒 名 |
総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀 |
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生涯 |
天文3年5月12日(1534.06.23)、尾張国の戦国大名、織田信秀の子として生まれました。信長は三番目の子でしたが、信秀の正室(土田御前)の子としては長子だったため嫡男として2歳の時、すでに那古野城主となりました。
天文15年(1546)、元服して織田上総介信長と称し、その二年後、美濃国の戦国大名、斉藤道三の娘、濃姫(帰蝶)と結婚しました。
天文20年(1551)、父の織田信秀が没したため、家督を継ぎましたが、その葬儀の際、祭壇に抹香を投げつけたという逸話が残っているほど奇行が目立ち、「うつけ者」と呼ばれていました。天文22年(1553)には、信長の教育係だった平手政秀がそのような信長の奇行を死をもって諌めるという事件もおこりました。
そのような状況でしたので、家中も二分され、弟の織田信勝(信行)を擁立する動きも出てきました。しかし、後に信勝(信行)を殺害し、敵対する同族の織田一族を破り続け、永禄2年(1559)ころまでに尾張国を統一、支配権を確立しました。
その翌年の永禄3年(1560)駿河国の大名、今川義元が上洛を果たそうと大軍を率いて尾張へ攻めのぼった時、わずか4000で本陣をつき、義元の首級を挙げ、大勝利しました(桶狭間の戦い)。これをきっかけに、天下統一への道を歩むことになります。
そして、幼少時代、人質として尾張で過ごし、信長と親交もあった徳川家康が、桶狭間の戦いで敗れて衰退していった今川家から独立したことで、両者は同盟(清州同盟)を結び、後顧の憂いをなくした信長は、本格的に美濃攻略に乗り出します。
美濃攻略では、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の墨俣一夜城の築城などの活躍によって勢力を拡大、西美濃三人衆など美濃の領主だった斉藤氏の家臣をとりこみつつ、ついに永禄10年(1567)、斉藤龍興を破り、美濃を攻略。ここを中国の故事にちなんで「岐阜」と改めました。
翌、永禄11年(1568)9月、信長を頼ってきた室町幕府第13代将軍、足利義輝の弟、義昭を助け、上洛を果たし、彼を第15代将軍にするとともに、天下に号令を果たしました。この時、義昭から副将軍の地位を打診されましたが、すでに室町幕府を見限ってきた信長は、これを固辞しました。さらに、信長の傀儡将軍であった足利義昭は徐々に不満を持ち、信長と対立を始めます。
元亀元年(1570)、度重なる上洛命令を無視した越前の朝倉氏討伐のため挙兵、越前金ヶ崎まで進軍したところで、妹婿の北近江の大名、浅井長政の裏切りにあって撤退を余儀なくされます。しかし、この時は、殿軍の池田勝正や木下秀吉(木下藤吉郎改め・のちの豊臣秀吉)や明智光秀、徳川家康の活躍によって、何とか京に逃れることができました。
その後、裏切った浅井長政を姉川の戦いで破ったものの、各地で反信長連合が生まれ、信長は窮地に立たされます。そこで、浅井・朝倉連合軍に味方した比叡山を焼き討ちするなど、抵抗を続けました。しかし、足利義昭の出兵要請に応じ、甲斐の武田信玄が挙兵。盟友の徳川家康が、三方ヶ原の戦いで大敗してしまいました。
ところが、信玄はその直後に陣中で病死。運良く窮地を脱した信長は、元亀4年(1573)に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼし、朝廷に改元を奏上。元号を元亀から天正へと改めさせました。そして8月、浅井・朝倉両氏を滅ぼしました。
天正3年(1575)5月、長篠の戦いで信玄の息子、武田勝頼を鉄砲の三段撃ち戦法で破り、勢いを増します。そして、翌年から琵琶湖畔の安土に安土城の築城を開始しました。さらに信長に抵抗しうる最後の武将と考えられていた上杉謙信が没し、天下統一も現実のものとなってきました。
その後は、柴田勝家に北陸地方を、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に中国地方というように、家臣団各方面の攻略を任せていきます。そして、天正10年(1582)にはついに甲斐の武田氏を滅ぼしました。
一方、中国地方の攻略を任された秀吉は三木城、鳥取城と次々と毛利氏の支城を落としてゆき、天正10年(1582)には、備中高松城を水攻めで包囲しました。そこで、毛利の大軍が高松城へ援軍として向かう動きがあるとして、信長に救援の依頼を寄こしました。そこで信長は、明智光秀に救援に向かうよう命令し、自らも京都の本能寺で出陣に備えて滞在していました。
しかしその時、謀反を起こした明智光秀に本能寺を攻められてしまいます。はじめは、自らも槍をもって応戦していましたが、100人ほどの手勢しかおらず、自らも怪我を負ってしまい、もはやこれまでと火を放ち、燃えさかる炎の中で自害して果てました(本能寺の変)。
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