大永2年(1522)に尾張国愛知郡上社村(愛知県名古屋市名東区)で生まれました。
はじめは信長の父、織田信秀に仕えました。信秀の死後は、織田信秀(信長の弟)に仕え、信長と対立していました。
しかし、弘治2年(1556)年に、稲生の戦いで信行が敗れると、以後は信長と通じるようになります。
信行の死後は織田信長に仕え、家老になります。
一度は対立したにもかかわらず、信長の信頼を得て、家老になったことを考えるとひとかどの人物であったといえるでしょう。何より、家柄を無視し、実力や結果を重んじて家臣を登用した信長が筆頭家老に任じるくらいですので。
信長に仕えた後は、数々の戦いで戦功を挙げ、前田利家や佐々成政を従えて北陸地方の平定を一任されました。
天正10年(1582)に主君の織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた時は、魚津城攻略の途中で、越中(富山)にいました。
そして、上杉景勝との戦いで動けず、結果的に、信長の敵である明智光秀を討つことができませんでした。
本能寺の変後の処理のために開かれた清州会議では、信長の三男、織田信孝を後継者に推しました。しかし、後継は、光秀を討ったことで発言権が増した秀吉が推す三法師(信長の嫡孫、後の織田秀信)になったため、秀吉との対立は以後修復できないものになりました。
北近江三郡を領有するにとどまった勝家は、信長の妹であるお市と結婚し、越前北ノ庄(福井)で秀吉と対立しましたが、天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れ、北ノ庄城で秀吉軍の包囲の中、お市とともに自害しました。
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