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天正4年(1576)織田信長が天下布武の拠点としてこの山頂に五層六階の天守閣を持つ安土城を築いた有名なところです。現在は山全体が特別史跡となっており、調査整備事業が進められており、信長時代の姿をよみがえらせつつあります。
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安土城を特徴づける道です。天守閣の方向へまっすぐにのびています。これだけでも「お城=防御のための要塞」という常識が見事に覆されるのが分かります。信長は、安土城を初めから防御のために建築したのではないということです。防御のためであるなら、天守閣までは細くて入り組んだ枡形の道を設けるはずです。
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ここは、信長の家臣だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の邸跡です。大手道に面していて道をはさんで向かい側には、前田利家邸があったと考えられています。この羽柴秀吉邸は、上下二段の郭(くるわ)に分かれています。主人は普段上段にいて、下段には、厩などがあったと考えられています。
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向かい側にある羽柴秀吉邸と同様に大手道の入口という重要な位置にあります。16世紀の武家屋敷の遺構は全国的にも非常に珍しいそうです。
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大手道は、ここから折れ曲がっています。いよいよ安土城の中枢へと入っていくわけです。写真正面付近は徳川家康の邸があったといわれているところです。
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武井夕庵・織田信忠邸跡を左に見て、さらに登っていくと森蘭丸邸跡があります。そのすぐそばに黒金門がありました。この門をくぐるといよいよ安土城の中枢部分です。
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黒金門をくぐって、正面の本丸跡へ向かう前に左に折れ、二の丸へ先に向かいます。
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現在の二の丸(西の丸)には、織田信長の廟があります。1582年の本能寺の変で家臣の明智光秀の謀叛によって天下統一を目前に最期をとげました。最期の言葉「是非もなし」。(しょうがない)
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本丸跡は千畳敷とよばれ本丸御殿があったところと考えられています。発掘調査によると、碁盤目状に配列された119個の礎石が発見されました。これらの礎石の配置から、中庭をはさんで三つの建物が存在していたと考えられています。
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天守閣は安土城竣工後わずか三年で焼失しました。その後は長い間そのままでしたが、若干の補強が発掘時になされた以外は、現在でも創建当時の石垣が存在しています。この階段を登ったところが天守閣跡です。
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この階段を登ったところが天守閣跡です。信長と同じところを歩いていきます。
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安土城天守閣は詳細な記録が残っており、これらの礎石の上には金箔装飾を施した瓦や絵画装飾で彩られ、内部に吹抜けを持つ五層六階の巨大建築物が存在していました。
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