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026-12
兼六園
花見橋 |
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027-1
寺田屋1 |
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027-2
寺田屋2 |
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027-3
寺田屋3 |
石川県金沢市 |
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京都府京都市伏見区 |
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京都府京都市伏見区 |
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京都府京都市伏見区 |
曲水に架かる木橋で、その名の通り花見には最適の場所です。
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文久2年(1862年)寺田屋騒動の舞台となった場所。薩摩藩士同士の討ちあいという悲劇が起こりました。
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当時、薩摩藩には藩主、島津久光を中心とした穏健派と尊皇攘夷をとなえる急進派に二分されていました。文久2年(1862年)4月23日、有馬新七ら急進派同志は、京都所司代の酒井忠義を殺害すべく、寺田屋に集結しました。これを知った島津久光は、寺田屋に奈良原喜左衛門らを説得に向かわせましたが、失敗。ついに乱闘になりました。
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写真手前の提灯は、当時のままだそうです。
寺田屋騒動の時、有馬新七は、刺客のひとりを押さえ込むと、振り向いて同志に向かって「おいごと刺せ」といったそうです。同志は、一瞬ためらいましたが、新七の背中から刺客の胸まで刺し貫きました。しかし、新七をはじめとした志士らは全員討ち死にしました。
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028-1
川原寺 |
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028-2
川原寺回廊跡 |
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028-3
川原寺塔跡 |
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029-1
岡寺
岡寺へ続く坂道 |
奈良県高市郡明日香村 |
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奈良県高市郡明日香村 |
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奈良県高市郡明日香村 |
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奈良県高市郡明日香村 |
伽藍配置に川原寺式として名が残る川原寺は、現在弘福寺と呼ばれています。建久2年(1191年)に焼失したあとは、小堂が残るのみになってしまいました。創建は655年、斉明天皇の川原宮跡に営まれました。現在、本堂がある位置にあった中金堂を中心に、西南に西金堂、東南に塔があり、さらに北には講堂や僧房が配されていました。
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川原寺が昔、回廊をつなぐ大伽藍を持っていた名残です。
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中門をくぐって右側には立派な塔があったものと思われます。現在は茂みの中に、石碑のみが確認できました。奈良時代までは飛鳥寺・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並んで、飛鳥の4大寺といわれていました。
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岡寺へはかなり急な坂道を登らねばなりません。真夏に行きましたので、暑さでかなりこたえました。
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029-2
岡寺
坂乃茶屋1 |
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029-3
岡寺
坂乃茶屋2 |
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029-4
岡寺
仁王門 |
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029-5
岡寺
三重塔 |
奈良県高市郡明日香村 |
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奈良県高市郡明日香村 |
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奈良県高市郡明日香村 |
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奈良県高市郡明日香村 |
坂の途中にあった茶屋です。葛きりの看板がありました。なにやら見たことのある、初めて見た店ではない気がしました。
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なぜ、坂乃茶屋が初めて見た店ではない気がしたのかは店内に入れば分かりました。NHK朝の連続テレビ小説「あすか」(平成11年10月〜平成12年3月)に出てきた茶店だったのです。店内にはその時のロケの様子を撮影した写真がありました。
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創建は大宝三年(703年)、宗派は真言宗豊山派。西国三十三観音第7番札所、正式には東光山龍蓋寺といいます。
開基は義淵僧正です。
彼は捨て子でしたが、天智天皇が拾って岡の宮で育てたという言い伝えがあります。その後、僧となった義淵は、この岡のを譲り受け、寺としたのです。これが実は岡寺の由来です。
写真は、岡寺の入口にあたる仁王門です。 |
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明治以降に造られ、文化財指定はありませんが、見ての通り立派な三重塔です。高さは、約15メートルはあるそうです。
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029-6
岡寺
本堂 |
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030-1
安土城
安土山 |
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030-2
安土城
大手道1 |
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030-3
安土城
大手道跡の石仏 |
奈良県高市郡明日香村 |
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滋賀県蒲生郡安土町 |
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滋賀県蒲生郡安土町 |
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滋賀県蒲生郡安土町 |
寺号である龍蓋寺の名の由来は、義淵僧正が、近くに住み人々を苦しめていた龍を池に閉じ込め、大きな石で蓋をしたという伝説から来ています。その伝説の龍蓋池が本堂の前にあります。雨乞いの時、上に載せた石を動かすと効果があるといわれています。本尊の如意輪観音像は日本最大の塑像として有名です。
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天正4年(1576)織田信長が天下布武の拠点としてこの山頂に五層六階の天守閣を持つ安土城を築いた有名なところです。現在は山全体が特別史跡となっており、調査整備事業が進められており、信長時代の姿をよみがえらせつつあります。
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安土城を特徴づける道です。天守閣の方向へまっすぐにのびています。これだけでも「お城=防御のための要塞」という常識が見事に覆されるのが分かります。信長は、安土城を初めから防御のために建築したのではないということです。防御のためであるなら、天守閣までは細くて入り組んだ枡形の道を設けるはずですから。信長の考えに驚かされます。
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大手道付近には写真のように石仏を材料とした石が多数存在します。石材が不足していたために転用したものと考えられています。神や仏をも恐れなかった信長らしいとでもいえましょうが、ここまで徹底しているとは。驚きです。
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030-4
安土城
伝羽柴秀吉邸跡 |
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030-5
安土城
伝前田利家邸跡 |
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030-6
安土城
大手道2 |
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031-1
安土城
黒金門跡 |
滋賀県蒲生郡安土町 |
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滋賀県蒲生郡安土町 |
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滋賀県蒲生郡安土町 |
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滋賀県蒲生郡安土町 |
ここは、信長の家臣だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の邸跡です。大手道に面していて道をはさんで向かい側には、前田利家邸があったと考えられています。この羽柴秀吉邸は、上下二段の郭(くるわ)に分かれています。主人は普段上段にいて、下段には、厩などがあったと考えられています。また、遺構等が発見されていますので、下段の入口には立派な櫓門があったと考えられています。
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向かい側にある羽柴秀吉邸と同様に大手道の入口という重要な位置にあります。16世紀の武家屋敷の遺構は全国的にも非常に珍しいそうです。
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大手道は、ここから折れ曲がっています。いよいよ安土城の中枢へと入っていくわけです。写真正面付近は徳川家康の邸があったといわれているところです。
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武井夕庵・織田信忠邸跡を左に見て、さらに登っていくと森蘭丸邸跡があります。そのすぐそばに黒金門がありました。この門をくぐるといよいよ安土城の中枢部分です。天守閣が焼失した時、この門周辺も共に焼失したと考えられ、焼けた石垣や礎石がみられます。最近の発掘調査で、この門周辺の建物は多層的に結合していた可能性がでてきたそうです。ここから天守閣へ通じる通路には覆いかぶさるように建物が存在していたかも知れません。
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