写真で見る日本の歴史
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037-2
豊国神社
正面鳥居
037-3
豊国神社
唐門
038-1
方広寺
本堂
038-2
方広寺
鐘楼
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
豊国神社の周辺は、有名な観光スポットである三十三間堂(蓮華王院)や京都国立博物館がある他、豊臣氏ゆかりの社寺が多数存在します。例えば、3歳で没した秀吉の長子である鶴松の菩提寺を前身とする智積院や淀君の父、浅井長政の菩提寺として建立された養源院などです。また、豊臣氏の寺である方広寺(現在は、国家安康の鐘(重文)のみが残る)があります。
国宝。伏見城の遺構と伝えられています。南禅寺の金地院を経てこの場所に移築されました。
方広寺は豊臣氏の氏寺としてかつて隆盛を極めたお寺です。最盛期には、付近にある有名な三十三間堂をも寺域に含めていました。また、1588年(天正16年)の刀狩の際も、この方広寺大仏殿の釘に作り直すためという口実で行ったほどでした。しかし、現在は小堂と国家安康の鐘(重文)が残るのみになりました。方広寺といえば、有名な『方広寺鐘銘事件』が思い出されます。
『方広寺鐘銘事件』
最初の方広寺大仏殿は、1596年(慶長元年)の地震で倒壊しましたその後の工事で、本堂は再建され、1614年(慶長19年)には、巨大な鐘も造られました。しかし、この鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽」の部分があり、家康は「家康の名を二分して、国安らかにさせ、豊臣を君主とする」の意味であるとして激怒しました。これは、家康が豊臣氏を滅ぼすための口実をつくったとも考えられていますが、ともあれ、これをきっかけに豊臣氏滅亡への秒読みが始まったのです。
038-3
方広寺
国家安康の鐘
039-1
ニコライ堂
040-1
於美阿志神社
桧隈寺跡
041-1
杵築城
登り口
京都府京都市東山区 東京都文京区 奈良県高市郡明日香村 大分県杵築市
重要文化財。
右上の白くなっている部分に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が見られます。
明治10年(1877)イギリスの建築家のコンドルは工部大学校の教授として来日しました。彼は、1883年には日本の文明開化の象徴ともいえる建物の鹿鳴館を設計したりしましたが、このニコライ堂も彼によるものです。明治24年(1891)、建設されたこの建物は、日本におけるロシア正教会建築の代表作です。しかし、純粋にロシア式ではなく塔にはイギリス風が加味されているそうです。
桧隈は、百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神としています。『日本書紀』には、天武天皇の朱鳥元年の条に桧隈寺の寺名がみられ、寺跡からは、7世紀末の瓦が出土します。
現在の杵築城へは、麓から歩道を歩いて登っていきます。
041-2
杵築城
天守閣
041-3
杵築城
絵図
042-1
中津城
042-2
中津城
中津城の石垣
大分県杵築市 大分県杵築市 大分県中津市 大分県中津市
最初に杵築城に入城したのは、木付氏の4代目、木付頼直の時(応永元年(1394))です。文禄2年(1593)の木付氏の滅亡後には、様々な藩主が交代しましたが、正保2年(1645)の松平英親入城以来、松平氏が明治維新まで治めました。現在の杵築城天守閣は、昭和45年に当時の天主台跡に建設されました。海に突き出た半島を利用してつくられた平山城です。
杵築城は、別名「木付城」「勝山城」「臥牛城」と呼ばれています。これは、天正15年(1587)、木付氏第16代の鎮直の時代に島津義弘の攻撃を撃退したことに由来します。また、「臥牛城」のいわれは、このように、地形が牛の臥した姿に似ていることによるものです。現在も使用されている「杵築」の文字は、正徳2年(1712)に江戸幕府第六代将軍、徳川家宣の下賜の朱印状に書かれた事に始まります。
所在地 大分県中津市
現在の城は、昭和39年(1964)に再建されたものです。五層の天守閣と二層の櫓からなります。
右側は黒田孝高(如水)時代の石垣です。かれは、大規模な築城に取りかかりましたが、度重なる戦などのため、なかなか工事もはかどらないまま慶長5年(1600)年、中津を去りました。その後、細川忠興が入城しましたが、左側の石垣は、その時代のものです。両時代の石垣ともに花崗岩が多く使われています。その後、小倉城に彼は居城を移しましたが、元和7年(1621)、隠居の後、再び中津城に入り、城下町の整備を行いました。
043-1
中津城
中津城天守閣
043-2
中津城
奥平神社
044-1
福沢諭吉旧居
@
044-2
福沢諭吉旧居
A
大分県中津市 大分県中津市 大分県中津市 大分県中津市
中津城天守閣は昭和39年(1964)に再建されました。
中津城内にありました。奥平家は村上天皇を祖とします。もとは関東の出ですが、戦国時代に三河(愛知県)にうつり、長篠城主となりました。天正3年(1575)の長篠の戦いでは、武田勝頼の大軍を長篠城で28日間籠城して食い止め、織田・徳川軍の鉄砲隊の活躍を得て大勝利を収める原動力となりました。
 この軍功によって、徳川家康の長男を娶った奥平信昌は、江戸幕府では親藩となりました。享保2年(1717)、奥平正成が中津に入城後は、明治維新に至るまで奥平家が中津城主でした。
福沢諭吉とその家族が住んでいた後、その親戚が居住していましたが、旧中津藩主奥平家の所有を経て中津市に寄付され、現在に至っています。木造藁葺きの平屋建ての母屋のほかに、福沢諭吉が勉強部屋として利用されたと伝えられている土蔵などが残っています。
母屋の内部写真です。福沢諭吉が少年期を過ごした家です。
044-3
福沢諭吉旧居
B
045-1
平等院
045-2
平等院
扇の芝
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平等院
源頼政の墓
大分県中津市 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
福沢諭吉が勉強部屋として使用していた土蔵です。
平等院はもともとは藤原道長の別荘でしたが、永承7年(1052)その子の藤原頼通が寺院に改めて平等院としました。「平等」とは「仏の救済」を意味する言葉です。
源平の合戦の時、源頼政という武将が、平氏と宇治の平等院で対戦しましたが、敗れて自害しました。その場所がここであるといわれています。「扇の芝」とは、頼政が自害した場所を軍扇でかたどったものといわれています。
そばの説明版によると、源頼政は平清盛の横暴に反抗し、治承4年(1180)に挙兵しました。しかし、衆寡敵せず敗れて、平等院にて自害したそうです。76歳でした。
辞世の句
「埋もれ木の花咲くこともなかりしにみのなるはてぞ悲しかりける」
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