写真で見る日本の歴史
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031-2
安土城
二の丸へ
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安土城
織田信長公本廟
031-4
安土城
本丸跡
031-5
安土城
天守台の石垣
滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町
黒金門をくぐって、正面の本丸跡へ向かう前に左に折れ、二の丸へ先に向かいます。
現在の二の丸(西の丸)には、織田信長の廟があります。1582年の本能寺の変で家臣の明智光秀の謀叛によって天下統一を目前に最期をとげました。最後の言葉「是非もなし」。(しょうがない)
本丸跡は千畳敷とよばれ本丸御殿があったところと考えられています。発掘調査によると、碁盤目状に配列された119個の礎石が発見されました。これらの礎石の配置から、中庭をはさんで三つの建物が存在していたと考えられていますが、これは天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることが分かっています。織田信長に関する第一級の史料である『信長公記』によると、この建物の中には皇居の間があったといわれていることから、信長は安土城への天皇行幸を企図していたということでしょう。しかし、残念ながらそれは実現しませんでした。
天守閣は安土城竣工後わずか三年で焼失しました。その後は長い間そのままでしたが、若干の補強が発掘時になされた以外は、現在でも創建当時の石垣が存在しています。
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安土城
天守閣跡へ
031-7
安土城
天守閣の礎石
032-1
安土城
織田信長公肖像?
032-2
安土城
天守五階
滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町
この階段を登ったところが天守閣跡です。信長と同じところを歩いていきます。
安土城天守閣は詳細な記録が残っており、これらの礎石の上には金箔装飾を施した瓦や絵画装飾で彩られ、内部に吹抜けを持つ五層六階の巨大建築物が存在していました。
宣教師が描いたとされる織田信長の肖像画。最も実際の顔に近いとされています。安土城天守「信長の館」に掲示されていたものです。
近年、加賀藩の御抱大工に伝わる「天守(主)指図」という史料が発見されました。これは、安土城天守の詳細な設計図でした。これをもとに、1992年の「スペイン・セビリア万国博覧会」の日本館のメイン展示として原寸大の安土城天守五・六階部分が復元されました。五階部分は仏教の世界観による八角形になっています。
032-3
安土城
天守五階内部
032-4
安土城
天守最上階
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安土城
天守最上階内部
033-1
總見寺
總見寺二王門
滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町
仏教で宇宙空間を表す八角形、約30坪の空間です。内部は二重になっていて、内陣と呼ばれる内側には金箔の壁と釈迦説法図の襖絵にかざられた総朱塗りの床の中央に二枚の畳が置かれています。外陣とよばれる外側も金箔・総朱塗りで飛龍図などが描かれています。
最上階(六階)の外観は金箔10万枚を使用した金閣をもほうふつとさせるものとなっています。また屋根には金箔を施した鯱(しゃちほこ)があります。
最上階の内部は、金箔や漆塗りのきれいなものでした。当時、信長が狩野永徳に描かせた金碧障画図などが飾られています。
總見寺は、織田信長によって築かれた安土城内にある本格的な仏教寺院です。城下町から百々橋口を通って安土城内へと続く道の途中にあるため、多くの人がこの境内を通って、信長の所へ参上していったことが記録に残っています。
木造の金剛二力士像は、応仁元年(1467)の作で、重要文化財に指定されています。
033-2
總見寺
總見寺三重塔
033-3
總見寺
總見寺本堂跡
034-1
高松塚古墳
高松塚古墳1
034-2
高松塚古墳
高松塚古墳2
滋賀県蒲生郡安土町 滋賀県蒲生郡安土町 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村
總見寺へは安土城の天守閣跡へ登った後、大手道経由と別のルート(百々橋口へ)で帰る途中にありました。人の往来は全くなく、ひっそりとしていて、正直かなりコワかったです。
總見寺の伽藍だけは、本能寺の変の直後の安土城の火災においても類焼を免れることができました。しかし、江戸時代末(嘉永7年・1854)に惜しくも焼失してしまいました。現在の本堂は、大手道脇の伝徳川家康邸跡にあります。
高松塚古墳の石室内の壁面や天井には、漆喰を塗りこんだ上に壁画が描かれていました。これは、その当時の文化を知る上で非常に重要な文化財です。しかし、長い年月を経て漆喰がはがれ落ちつつあり、貴重な文化財の風化を防ぐために、写真のように石室内を固め、最新の科学技術をもって、風化を防ぐ措置がなされました。現在は、すぐ隣に石室内を忠実に再現した史料館があり、そこで壁画を見ることができます。
石室内の東西北の壁面にはそれぞれ、四神の青竜・白虎・玄武が描かれていました。しかし、南面には巨大な盗掘穴があったために、南を護るとされる朱雀の絵は発見できませんでした。ただ、朱雀については、同じように壁画に描かれた石室を持つ近くのキトラ古墳では確認されました。
035-1
キトラ古墳
キトラ古墳1
035-2
キトラ古墳
キトラ古墳2
036-1
飛鳥水落遺跡
037-1
豊国神社
奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 京都府京都市東山区
7世紀ころにつくられたと思われる終末期の古墳で、被葬者は不明です。その名の由来には、キトラ古墳がある地域の「北浦」にちなんでいるという説と石室内の壁に亀と虎の絵が描かれていたことにちなんでいるという二つの説があります。
このように、キトラ古墳の石室には、天井に星座が描かれたものとしては世界最古と考えられる図がありました。また、壁面には、玄武・白虎・朱雀・青竜の四神の絵などが発見されました。このうち、同じような壁画が描かれていた近所の高松塚古墳には、大きな盗掘孔のために朱雀の絵は確認されなかったのに対して、キトラ古墳では、今にも羽ばたかんばかりの美しい朱雀の絵が発見されました。このような、美しい壁画や星宿図を持つ古墳ですが被葬者には諸説があります。
日本書紀によると、斉明天皇の6年、ときの皇太子だった中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計をつくったとされています。当時の日本は、中国の先進文明を積極的に取り入れて、律令制に基づく中央集権体制にをととのえつつありましたので、中国にならって時刻に即した生活を植えつけようとしたと考えられています。
豊臣秀吉をまつり、一般に「ホウコクさん」の愛称で親しまれている神社です。秀吉は没後、後陽成天皇から豊国大明神の神号を賜り、阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られたので、その麓に立派な廟社が建てられたのが始まりです。豊臣氏滅亡後、徳川幕府によって取り壊されましたが、明治13(1880)年に再建されました。
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