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048-5
彦根城
黒門 |
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049-1
彦根城玄宮園 |
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049-2
彦根城玄宮園
楽々園 |
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049-3
彦根城玄宮園
鳳翔台 |
滋賀県彦根市 |
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滋賀県彦根市 |
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滋賀県彦根市 |
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滋賀県彦根市 |
西の丸から下ってくるとこの黒門に出ます。この前に井伊直弼が生まれたといわれている建物があります。また、その周辺は玄宮園という池泉回遊式の庭園があります。
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昭和26年、国指定名勝に指定されています。大池泉回遊式の城郭庭園で、第4代彦根藩主、井伊直興によって、延宝5年(1677)につくられました。近江八景や竹生島、沖の白石になぞらえて築庭されたものです。中国、唐の時代(618〜907)の玄宗皇帝の離宮からその名が付けられました。背景には、彦根城の天守閣が美しく見えます。
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藩主の下屋敷として使用されていたところです。幕末の大老井伊直弼の生誕地(1815年10月29日誕生)として知られている御殿です。第4代藩主、井伊直興が延宝7年(1679)に完成させたものです。建築材に槻(ケヤキ)が使用されていたことから当初は「槻御殿」と名づけられました。その後、第12代藩主の井伊直亮がこの建物に「楽々の間」を造ったことから、楽々園と呼ばれることが一般的となりましたが、他にも彦根城の黒門の近くにあるので、黒門前屋敷などと呼ばれていました。
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この建物は、庭を眺めながら藩主が客をもてなすところでした。鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で、この名がつけられました。
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049-4
彦根城
井伊直弼像 |
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050-1
安芸の宮島 |
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050-2
安芸の宮島
大願寺 |
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050-3
安芸の宮島
千畳閣 |
滋賀県彦根市 |
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広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
井伊直弼は、1853年ペリー浦賀来航に対して、開国論を唱え、その後、1858年に大老という最高位に就任しましたが、朝廷の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことで、尊攘派の反感を買いました。1859年の安政の大獄では彼ら尊攘派の志士らを弾圧したため、翌年、桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に暗殺されました。
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日本三景のひとつとして有名な宮島は、平清盛ゆかりの建造物をはじめ、歴史的遺産が多数あります。宮島は世界文化遺産に登録されています。
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日本三弁財天の一つとして有名です。残りの二つは江ノ島(与願寺)・竹生島(宝厳寺)です。年に一度、6月17日に弁財天のご開帳がおこなわれます。別名を亀居山放光院といいます。この大願寺は厳島神社の修理造営を行っていました。
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この建物は、天正15年(1587)に豊臣秀吉が安国寺恵瓊に命じてつくらせたものです。豊臣秀吉の死去に伴い建立は中断したので、未完成のままです。もともとは読経所(大経堂)としてつくられ、仏像を安置していましたが、明治元年(1868)の神仏分離によって、豊国神社となり現在に至っています。重要文化財。
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050-4
安芸の宮島
塔の岡 |
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050-5
安芸の宮島
五重塔 |
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051-1
宮島厳島神社 |
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051-2
宮島厳島神社
大鳥居 |
広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
五重の塔があるので塔の岡とよばれています。弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢が戦った厳島合戦の古戦場でもあります。
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応永14年(1407)の建立です。高さは約27.6mです。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。この塔の外観は、屋根の反りが大きいなど唐様の特徴と入口の板扉など和様の特徴という2つの様式が調和したつくりとなっています。尚、建物の内部は完全な唐様で、彩色も鮮やかに残っています。明治元年(1868)の神仏分離令により、塔内の仏像は大願寺に移し、建物は厳島神社が維持管理するようになりました。重要文化財。
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創建は、推古天皇元年(593)と伝えられています。平清盛の時代に、海に浮かぶ社殿の構想の下に造営が開始され、仁安3年(1168)に完成しました。社殿は、承元元年(1207)や貞応2年(1223)をはじめ火災に度々見舞われました。また、台風などの被害にも度々あいましたが、現在もその姿をとどめて多くの参拝客・観光客がおとずれています。
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重要文化財。厳島神社の大鳥居は、厳島神社のみならず、観光日本のシンボルとして外国にも広く知られています。現在の鳥居は平安時代からかぞえて8代目です。高さ約16mで、海面に自然の重みで立っています。
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051-3
宮島厳島神社
社殿内部 |
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051-4
宮島厳島神社
後白河法皇御行幸松 |
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051-5
宮島厳島神社
能舞台 |
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051-6
宮島厳島神社
高舞台 |
広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
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広島県廿日市市 |
厳島神社の社殿は、国風文化で有名な「寝殿造」の建築様式でつくられています。大鳥居をはじめ、朱塗りの社殿が宮島の緑の山々と海の青色に見事に調和している景色は日本三景の一つに数えられるほどの絶景となっています。
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後白河法皇(1227〜1192)といえば、武家の力を利用して権力を握った人です。しかし、平氏の専横が強まるにつれて平清盛との関係も悪化していきました。彼の第二子の以仁王が平氏追討の令旨を発すると、各地で源氏が蜂起、ついに平氏を滅ぼすことに成功します。写真の御行幸松は承安4年(1174)のものとあります。
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国宝。桧皮葺の能舞台は、床は響きをよくするため一枚の板のようになっています。また、海上に建っているため、様々な工夫がしてあります。床は太鼓の皮のように響きが良くなっており、足で拍子をとるたびに共鳴して音を響かせます。
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平舞台の中央にある舞楽を演じる舞台です。江戸時代に入って、このように平舞台(国宝)の一部をくり抜き、現在のような舞台を造ったといわれています。舞楽の舞台としては最小のものだそうです。
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052-1
大浦天主堂@ |
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052-2
大浦天主堂A |
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053-1
亀山社中の跡
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053-2
亀山社中の跡
坂本竜馬像 |
長崎県長崎市 |
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長崎県長崎市 |
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長崎県長崎市 |
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長崎県長崎市 |
フランス人宣教師のフューレ神父は、文久3年(1863)、同じ宣教師のプチジャン神父の協力を得て、天主堂の建設を行いました。実際に建築を行ったのは熊本県天草出身の小山秀という大工たちでした。元治元年(1864)竣工、翌年の慶応元年(1865)に落成式が行われました。正式には「26聖殉教者天主堂」といいます。日本26聖殉教者とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕らえられ、長崎の西坂の丘(長崎駅近く)において慶長2年(1597)に処刑された26人の信徒たちのことです。この天主堂は、その西坂の丘に向けて建っています。
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この写真は、隣にある有名な観光地であるグラバー園から撮影しました。長崎の歴史的建造物は、少なからず昭和20年(1945)の原爆投下によって被害を受けていますが、この大浦天主堂も例外ではなく、窓に飾られたステンドグラスなどが破壊されました。しかし、すぐに修復工事がなされ、昭和27年(1952)には完了しています。
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亀山社中は、慶応元年(1865)に坂本竜馬らが設立した日本初の会社といわれています。後に、土佐藩直属の海援隊となりました。メンバーには、初代衆議院議長の中島信行や治外法権撤廃に活躍した後の外務大臣である陸奥宗光などがいました。
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坂本竜馬(1835〜1867)は土佐藩の郷士の家に生まれました。貧弱な少年だったといわれていますが、姉に鍛えられてついに北辰一刀流の免許皆伝となる程の剣術の腕前を得ました。幕末には「日本を洗濯いたし候」と志し、神戸海軍操練所や亀山社中の設立、薩長同盟の周旋など多くのことを成し遂げました。
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