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056-6
薬師寺
玄奘三蔵院入口 |
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057-1
歴史人物
001豊臣秀吉 |
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057-2
歴史人物
002猿飛佐助 |
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057-3
歴史人物
003千姫 |
奈良県奈良市 |
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滋賀県長浜市 |
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愛媛県今治市 |
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兵庫県姫路市 |
正面の八角形の建物には、法相宗の開祖である玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の遺骨が置かれているそうです。また、玄奘の『大唐西域記』(あの『西遊記』のモデルとなりました)にちなんだ壁画が、画家の平山郁夫氏が30年の歳月をかけて描き、ここに置かれています。
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(とよとみ ひでよし)尾張の中村(現在の名古屋市中村区)で生まれました。幼名は日吉。後に、木下籐吉郎と名のり織田信長に仕え、出世していきました。1573年浅井氏の小谷城攻略の功より、長浜城主となりました。1582年、本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を、その翌年、柴田勝家を破った後は、信長の後継者としての地位を不動のものにしました。また、大坂城を築き、1590年には、ついに天下統一を成し遂げました。しかし、晩年の1592年と97年には、朝鮮出兵の失敗などがあり、それが豊臣氏の衰退を早めてしまいます。翌年の1598年、豊臣氏の滅亡を案じながらこの世を去りました。
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(さるとび さすけ)真田十勇士の一人として、主君の真田幸村に仕えた甲賀忍者です。真田十勇士の中でも最も有名な人物の一人です。真田十勇士は他に、霧隠才蔵・海野六郎・穴山小助・由利鎌之助・根津甚八・望月六郎・筧十蔵・三好晴海入道・三好伊三入道。
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(せんひめ)江戸幕府二代将軍、徳川秀忠の長女として生まれました。最初は、豊臣秀頼に嫁ぎますが、大阪夏の陣で秀頼は自害してしまいます。後には、本多忠刻と再婚して姫路城の西の丸で暮らしますが、これも長くは続かず、夫に先立たれてしまいます。晩年は姫路城を出て、江戸で暮らしました。
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057-4
歴史人物
004福澤諭吉 |
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057-5
歴史人物
005児島惟謙 |
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058-1
後楽園 |
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058-2
後楽園
平四郎の松 |
大分県中津市 |
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愛媛県宇和島市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
(ふくざわ ゆきち)大阪の中津藩倉屋敷に生まれました。幼少期は、中津で暮らしました。後に、大阪の緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾長になりました。中津藩に蘭学塾を開きましたが、横浜で英語に出会い、その習得の重要性を感じ、今度は英語を勉強し始めました。語学の研修のため、アメリカ留学も経験しています。帰国後、有名な『学問のすすめ』など数々の書物を刊行しました。また、その間、教育にも力を注ぎ、慶応義塾(今の慶應義塾大学)を設立しました。
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(こじま これかた)ロシア皇太子ニコライ2世が、1901年に来日し、滋賀県大津市を巡行していたときのこと、警備中の巡査の一人であった津田三蔵に切りつけられ、軽傷を負ったという事件がおきました。世にいう「大津事件」です。大国ロシアに配慮した政府は、この巡査に「皇室罪」を適用して極刑にするように大審院(現在の裁判所)にせまりましたが、大審院院長だった児島惟謙は、「法によって裁く」との信念で政府の要求を退け、司法権の独立を守りました。後に、惟謙は「護法の神」とたたえられました。
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後楽園の入口(南門)です。後楽園は、正門も含めて二ヶ所の入口があります。南門は、岡山城から月見橋を渡ったところにあります。
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築庭前からこの地の名主だった平四郎の屋敷にあった松です。しかし、樹齢300年を超えたころに枯れ、現在のは二代目のものです。
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058-3
後楽園
茶畑 |
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058-4
後楽園
井田 |
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058-5
後楽園
蘇鉄畑 |
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058-6
後楽園
唯心山 |
岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
庭園内に畑があると、不思議なものですが、この茶畑は築庭時からこの地にあるものです。毎年、5月の第三日曜日には、茶つみ祭が行われます。
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藩祖である池田光政は、中国の周時代の井田法をこの地に普及させました。後に、その時の井田を園内に縮小再現して、田植えや稲刈りを行うことによって、農民の労苦をしのんだといわれています。
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蘇鉄(ソテツ)は桃山時代には庭園樹として珍重されていたとのことです。後楽園にはこのように多くの蘇鉄が植えられており、全国でも珍しいものです。
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後楽園のほぼ中央に位置しています。園内最大の築山です。写真は表側で、ツツジが植えられています。この築山の上からは、園内を一望することができます。唯心山は築庭を命じた池田綱政の次の藩主である継政によってつくられました。
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058-7
後楽園
唯心山からの眺め |
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058-8
後楽園
後楽園と岡山城 |
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059-1
後楽園
沢の池 |
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059-2
後楽園
流店 |
岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
唯心山から見た沢の池です。沢の池は、園の中央にある園内最大の池です。 |
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遠くに岡山城の天守閣が見えます。安土城を模したという岡山城は、豊臣政権で活躍し、後に関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家によってつくられました。
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後楽園で最大の池です。中ノ島、御野島、砂利島の三つの島があります。
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亭舎の中央を清水が流れています。これに沿って、京都の加茂川の奇岩を並べています。この中で、しばしば曲水の宴が催されました。階上から、藩主が田植えなどを見物していたといいます。
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059-3
後楽園
腰掛茶屋 |
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059-4
後楽園
廉池軒 |
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059-5
後楽園
花葉の池 |
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059-6
後楽園
花葉の滝 |
岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
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岡山県岡山市 |
格子の上に東海道五十三次の絵を飾っていたことから、別名、東海道五十三次腰掛茶屋と呼ばれています。現在は、後楽園内の休憩所のような感じでありました。連子窓を通して、外の景色が眺められるようになっています。
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この廉池軒は、園内に存在する亭舎の中でも、後楽園を造った藩主池田綱政がもっとも好んで利用していたといわれています。
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花葉の池は、園内で二番目に大きな池です。夏のうちは、この写真のように、美しい大名蓮の葉が池一面に広がります。
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花葉の池に流れ込む人工の滝です。巧妙な石組みで、美しく見せるための工夫がなされています。
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