写真で見る日本の歴史
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062-5
銀閣寺
銀沙灘
062-6
銀閣寺
本堂
062-7
銀閣寺
東求堂
062-8
銀閣寺
洗月泉
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
「ぎんしゃだん」と読みます。およそ日本庭園らしからぬ庭です。しかし、向月台に映える月の影と美しく調和します。
内部には与謝蕪村や池大雅の襖絵が飾られています。江戸中期の建造です。
1466(文明14)年建立。国宝。1558(永禄元)年の兵火の際にも銀閣とこの東求堂だけは戦災から免れました。別名を持仏堂といいます。内部の仏間、同仁斎は日本最古の茶室といわれていますが元来は書斎として建てられたものだそうです。一般に書院造の建築といえばこの慈照寺(銀閣寺)東求堂同仁斎が代表的です。またこの同仁斎は、四畳半の間取りの始まりといわれています。
銀閣寺庭園・東求堂庭園の庭へと流れる滝です。
062-9
銀閣寺
銀閣
063-1
道後温泉本館
正面
063-2
道後温泉本館
振鷺閣
063-3
道後温泉本館
全景
京都府京都市左京区 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
東山山荘の仏殿として建てられた2層の楼閣建築です。観音殿と呼ばれていました。下層は書院造で心空殿、上層は禅宗様で潮音閣といいます。上層には、禅宗仏殿風の部屋があり、観音像が安置されています。実際には銀箔は張られませんでしたが、北山鹿苑寺(同じく臨済宗相国寺派)の金閣に対して銀閣と呼ばれています。
入口から見た道後温泉本館。神の湯と霊の湯の二種類があります。他にも休憩室、皇室専用の湯殿である又新殿があります。
屋根に突き出た望楼で、中には時を告げる太鼓があります。朝昼夕の1日3回、鳴り響きます。
重要文化財の道後温泉本館は、木造三層の城郭式建築です。屋根には、振鷺閣という望楼があります。
063-4
道後温泉本館
1階内部
064-1
伊佐爾波神社
064-2
伊佐爾波神社
064-3
伊佐爾波神社
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
1階入口奥の写真です。銭湯感覚の神の湯階下と2階に休憩室とセットで利用できる霊の湯があります。皇室専用の湯殿である又新殿も有料で見学できます。(霊の湯利用者は無料)
創建は平安時代にさかのぼる古社。現在の社殿は寛文7年(1667)のものです。当時の松山藩主、松平定長が江戸城で行われた流鏑馬(やぶさめ)の必中祈願成就のお礼として建てたものです。
京都の岩清水八幡宮を模して造られています。
唐破風の屋根と赤を基調とした建物。この奥には、安土桃山時代の建築様式を現代に伝える総檜皮葺の本殿があり、重要文化財に指定されています。
065-1
寶厳寺
山門
065-2
寶厳寺
一遍上人誕生所跡
065-3
寶厳寺
本堂
066-1
興福寺
東金堂と五重塔
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 奈良県奈良市
愛媛県指定史跡。寺伝によると、天智天皇4年(665)国司乎智宿弥守興(おちすくねもりおき)が天皇の詔により建立、正応5年(1292)再建され、時宗にあらためました。
一遍上人は、1239年に寶厳寺で生まれたとされています。後に熊野権現に参り修業に努め、時宗を開き、全国各地を旅しながら踊念仏を通して浄土教を広めました。踊念仏とは、念仏にあわせてかねや太鼓をたたいて踊ることです。平安時代に空也がはじめたとされていますが、その空也を崇拝していた一遍が、踊念仏をおこない、有名になっていきました。この踊念仏は、室町時代以降は芸能化して娯楽的色彩が強まっていきましたが、歌舞伎などもそれから生まれたもののひとつなのだそうです。
本尊は阿弥陀仏。また、中には重要文化財の一遍上人立像があります。この像は、寄木造で、高さが113.9センチメートル。文明7年(1475)の作とのことです。
興福寺を代表する景色です。興福寺は南都七大寺のひとつで法相宗大本山。藤原氏の氏寺として栄えました。多くの国宝・重文の建築物や仏像を有しておりみどころが多いです。南都七大寺は、薬師寺・東大寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺・法隆寺。
066-2
興福寺
東金堂
066-3
興福寺
五重塔
066-4
興福寺
仏頭
067-1
日本二十六聖人殉教地
石碑
奈良県奈良市 奈良県奈良市 奈良県奈良市 長崎県長崎市
神亀3年(726)聖武天皇が叔母にあたる元正天皇の病気全快を願って造立したのがはじまりです。創建後、戦災など何と6度にもわたる再建を繰り返しましたが、現在の建物は、応永22年(1415)に建てられたものです。
1426年完成。五重塔は総高が50mあり、京都の東寺にある五重塔に次いで、二番目の高さを誇ります。
写真は、奈良なら館にあった複製のもの。この仏頭は、もとは山田寺の本尊、薬師三尊像で、文治3年(1187)に興福寺に移されました。しかし、応永18年(1411)に火災のため焼けてしまい、このように頭部だけが焼け残りました。唐文化の強い影響を受けて成立した白鳳文化を代表する仏像として有名です。
長崎県指定史跡。慶長元年12月19日(1597.2.5)、豊臣秀吉のキリシタン禁令によって大阪・京都で捕らえられ、長崎に護送された後、この地で磔によって処刑されました。殉教したのは、6名の外国人と12歳・13歳の少年も含めた日本人20名で、護送の途中に加わった人もいます。この出来事はヨーロッパに伝わり、文久2年(1862)にローマ教皇によって彼らは聖人に列せられました。現在は、西坂公園となって、二十六聖人記念碑があります。記念碑の中央下には「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て十字架をとりて我に従ふべし」という聖書の言葉が刻まれています。
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