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石川門 |
五十間長屋 |
三の丸堀・橋爪門続櫓 |
重要文化財指定の石川門は実は金沢城の裏口にあたりますが、天明8年再建後は、焼失せずに現在まで残った数少ない建造物のひとつです。そのため、金沢城の顔的存在になっています。屋根が白っぽく見えるのは鉛葺きのためです。鉛は軽く、冬季に雪が屋根に降り積もった時に雪の重みに耐えうるため、また、いざという時は鉄砲の弾になりますので、雪国である金沢の城には最適だと考えられます。 |
左から橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓です。平成13年に復元されました。中に入られるようになっています。説明係の方はなかなか上手でした。
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橋爪門続櫓は、本丸(天守閣もふくむ)から二の丸へ金沢城の中心が移行した後は、城主が戦の時に指揮にあたる場所とされていました。
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三の丸堀・橋爪門続櫓 |
菱櫓・五十間長屋 |
菱櫓天井 |
この三の丸堀にかかるのが橋爪橋で、その先が橋爪門です。二の丸への入り口として非常に重要な門でした。ここをくぐって二の丸へ入ることができたのは城主の側近に限られていました。そのため、厳重な警備がなされていました。高麗門仕様の「一の門」をくぐると櫓門仕様の「二の門」があります。いわゆる枡形になっています。
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二の丸側から見た五十間長屋と菱櫓です。菱櫓はその名の通り建物全体がひし形になっています。写真でもわかるように金沢城にみられる特徴的な城壁の模様は瓦を漆喰で固めてあるためで、「なまこ壁」とよばれているものです。
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菱櫓が実際にひし形になっているのは、外からは良くわかりませんが、内部の天井を見るとよくわかります。100度と80度のひし形で、その目的は大手門と石川門に対して真正面を向くようにするためや、実際より大きく見せるため、またひし形の櫓という非常に高い技術を要する建造物を建てることで、権力を誇示することができるためといわれています。
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極楽橋 |
三十間長屋 |
鉄門跡 |
二の丸から本丸へつながる橋で、金沢城内ではっきりとした名前が付いてある橋があるのは珍しいそうです。
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宝暦火災(1759年)の後は長く再建されませんでしたが、安政五年(1858年)に再建されました。高い土台に板敷きであることから、武器・弾薬の倉庫として使用されていたのではと考えられています。昭和32年(1957年)に国の重要文化財に指定されました。
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本丸へ向かう際の正門跡です。創建時には、渡し櫓をのせ、鉄板を貼り付けた重厚で立派な門扉があったので、このような名前が付けられていました。
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本丸 |
戌亥櫓跡 |
鶴丸倉庫 |
古くは金沢御堂があったこの本丸跡地に、先ず天正8年(1580年)佐久間盛政が入城し尾山城を築きました。天正11年(1583年)に前田利家が入城してからは金沢城と改め、この地に天守閣を設けました。しかし、慶長火災(1602年)で焼失した後は再建されず、代わって三階建ての櫓が建てられていましたが、宝暦火災の時に焼失しました。現在は、深い森に囲まれていますが、それまでは本丸御殿もおかれており、金沢城の中心となっていました。
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戌亥の方角(北西)の角に設けられた櫓跡です。宝暦火災で焼失の後は再建されませんでした。
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鶴丸はこれより一段下のエリアになりますが、いつからか「鶴丸倉庫」と呼ばれるようになりました。ここには江戸時代には土蔵が建てられていたそうですが、現存するこの倉庫は、少なくとも明治初頭にはあったそうです。
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■金沢城は「石垣の博物館」といわれるほど、各時代の様々な技法による石垣が見られます。 |
野面積み
(東の丸北面)
ほとんど加工のない自然石を用いて積む。 |
切り込みハギ積み
(五十間長屋付近)
形や大きさをそろえた割り石を用いて積む。 |
打ち込みハギ積み
(石川門付近)
石同士の接合部分を隙間なく加工して積む。 |
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