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■探訪記(2009.03.15) |
所在地 : 滋賀県蒲生郡安土町大字下豊浦
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安土城はいわずと知れた織田信長が築城したお城です。この安土山の頂上に豪華絢爛な天主閣があったといわれていますが、本能寺の変の直後に焼失してしまいました。今は往時を想像させる石垣や礎石の遺構を残すのみですが、近年発掘調査が進められ、安土城の全貌が明らかになりつつあります。
安土城へは、(確か)平成6年(1994)に旧滋賀県安土城郭調査研究所の職員の方による案内で訪れて以来、何度もやってきています。当時は、大手道でさえも険しく、現在のように整備されてはいませんでした。すなわち、安土城に本格的にメスが入ってのはつい最近のことで、今後さらなる大発見により、安土城のことが解明される可能性があるのです。
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大手道 |
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安土城跡に登っていくためには、現在は2か所のルートがあります。すなわち、大手道経由で登っていく道と、総見寺の三重塔や仁王門などを経由して登っていく百々橋口経由の道です。前者の方が一般的で、駐車場が大手道の目の前にあり、簡単に本丸まで登っていくことができます。ただ、入口にはゲートができていて有料になっていました。実は、先の観音寺城(第2話参照)と同日で、観音寺城で十分につかれていたので、本丸までの往復にとどめようと考えていました。なので、百々橋口にも同様のゲートがあるかは確認していません。
安土城を築城した織田信長は、それまでに全国にあった他のお城とは全く違ったお城をつくるつもりだったようです。それがこの大手道に表現されています。大手道を見るとまっすぐ山の中腹まで伸びています。防御としての役割を持つお城としては攻めるに易い構造です。つまり、信長はもともとから防御のためのお城を造るつもりは全くなく、居館としての役割を重視していたということでしょう。とはいえ、信長がそれ以前に居城としたお城は岐阜城をはじめ山城が多かったですので、完全に防御目的から外れたお城を造るつもりでもなかったといえます。
また、この大手道の両側には重臣たちの屋敷があったとされており、羽柴(豊臣)秀吉、前田利家などの邸宅跡があります。徳川家康邸跡とされた総見寺の本堂付近は大手道をふさぐようにありましたが、発掘調査によってそこにあった建物は移築されています。さらに、大手道にある石段には石仏や墓石を転用したものもあり、現在でも確認することができます。
大手道の両端には観音寺城の石段にもあった側溝の遺構も見つかっています。このように、現在までの発掘調査の成果によって、大手道の全容はほぼ解明できています。
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羽柴秀吉邸跡 |
下段から上段の主殿跡を見る |
大手道に面した上段入口門跡 |
隅櫓跡 |
主殿跡 |
羽柴秀吉邸復原図 |
櫓門形式の下段入口 |
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戦国時代は所領をもつほどの家臣ともなれば、支城や居館をそれぞれの封土に築いて、そこで生活し、特別な時にだけ主君のところに参上するという場合が常識だったはずです。しかし、安土城には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や前田利家、徳川家康などの屋敷跡が伝承地とはいえ存在します。つまり、家臣たちを城下に住まわせるという当時では常識外れなことをやっておりました。
伝・羽柴秀吉邸跡は上下二段の郭にわかれており、主殿(母屋)のあった上段には高麗門、厩のあった下段には一階を門、二階を渡廊下とする立派な櫓門があったといわれています。また上段には重層の隅櫓があったとされており、当時の武家住宅の造りをうかがい知れる貴重な遺構となっています。
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安土城の中枢部 |
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安土城の中枢部は主郭といいます。この主郭の南西出入り口にあたる部分には桝形構造をもつ黒金門という門がありました。この付近の石垣の保存状況はとてもよかったです。また、桝形をしており、防御の機能も十分にあったと考えられます。
この黒金門をくぐった正面の石垣は二の丸跡の石垣ですが、安土城が焼失した時の跡とうかがえるような赤くこげた石垣がみられます。この二の丸には織田信長の廟所がありますが、これは秀吉が建立したと伝えられているものです。
本丸跡は千畳敷とよばれ本丸御殿があったところと考えられています。発掘調査によると、碁盤目状に配列された119個の礎石が発見されました。これらの礎石の配置から、中庭をはさんで三つの建物が存在していたと考えられていますが、これは天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることが分かっています。織田信長に関する第一級の史料である『信長公記』によると、この建物の中には皇居の間があったといわれていることから、信長は安土城への天皇行幸を企図していたということでしょう。
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天主閣跡 |
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安土城の天主閣(通常「天守」ですが、安土城は「天主」と表記することが多い)は本丸北にある天主取付台という郭から登っていくことができます。ここが安土山で最も高い部分になりますが、穴蔵となっている地下部分につながっていることもあって、眺めはさほど良くはありません。さらに身長くらいある石垣上から北側を望むと美しい眺望が開けます。
この天守台上に建っていた天主閣は完成からわずか3年後の天正10年(1582)に焼失してしまいました。ただ、太田牛一の『安土日記』やルイス・フロイスの『日本史』など当時の人々が残した資料や加賀藩のお抱え大工に伝わる『天守指図』という資料があり、それをもとにかなり詳細な形状まで明らかになっています。
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信長の館 |
信長の館 |
天主五階 |
釈迦説法図(天主五階) |
天主六階 |
金鯱 |
玉座(天主六階) |
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「安土城天主 信長の館」は、安土山からすぐそばにある博物館です。太田牛一の『安土日記』、ルイス・フロイス『日本史』そして『天主指図』などをもとに復元された安土城天主の5・6階部分が展示されています。もともと、1992年のスペイン・セビリア万国博覧会の日本館メイン展示として出展されていたものを、万博終了後、安土町が譲りうける形で保存展示されています。
信長の館では「日本100名城スタンプラリー」のスタンプ設置場所でもあります。大手道入口かここでスタンプを押すことができます。
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2009.03.15訪問
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