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■探訪記(2009.03.25) |
所在地 : 和歌山県和歌山市一番丁3
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和歌山城は「御三家」のお城です。家康の第十子である徳川頼宣を藩祖とし、55万5千石で「南海の鎮」としました。なお、紀伊徳川家五代当主は、後に江戸幕府第八代将軍となる吉宗です。吉宗は、ここ和歌山城に33歳まで藩主として活躍していました。
水戸城はともかく、同じ御三家の名古屋城と比べるとどうしてもお城の規模といい、いろいろと見劣りしてしまいます。しかし今回、堀を一周してみましたが、このお城の規模はなかなかのものです。和歌山市内を流れる和歌川をはじめとする川は、往時はすべてお城を取り囲む堀だったということですから、かなり大きなお城だったことがわかります。
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新裏坂 |
新裏坂 |
野面積みの立派な石垣(新裏坂) |
石垣に根を張るケヤキ(新裏坂) |
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和歌山城にやってくるのは二度目です。最初の時もつぶさに見て回ったつもりですが、今回はさらに詳しく見て回ろうと思い、数時間も城内外をうろうろしていました。
和歌山城は駐車場が裏手にあります。いわゆる大手門とは完全に反対側で、割と閑散としています。入口は不明門(あかずのもん)といっていたそうですから、あまり重要視されていなかった門だったのかと思います。しかし、そこから本丸までは新裏坂という登りを経由するとすぐです。その新裏坂の途中にはたくましく石垣に根を張るケヤキの木があって驚かされます。不安定な斜面に根をしっかりとはる姿からしてかなりの樹齢だと思います。
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本丸 |
二の御門櫓(石落としが圧倒的) |
本丸から天守閣を見る |
楠門 |
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新裏坂から本丸へと登ってくると二の御門櫓の正面に出ます。石落としは典型的な姿をしており、他のお城と同様のつくりをしています。それでいて、やはり城壁を登って侵入しようとする敵には効果的なものだったに違いありません。
さて、この二の御門櫓を含めた天守郭は、大小天守をはじめすべて多門櫓で連結されています。これらの建物は戦災によって焼失したため、戦後、鉄筋コンクリートで再建されたものですが、外観は当時のままの姿をとどめており、いわゆる外観復元天守となっています。
これら天守郭の入口は楠門といって、総楠木造りだったのでその名がつきましたが、例外なく惜しくも戦災の犠牲となっています。現在の楠門入口に天守郭につながる券売所があって、そこで天守郭および天守閣の入場券を購入して入っていくことができます。ちなみに、そこで日本100名城スタンプを押すことができます。ただ、楠門にも同じスタンプが置いてあり、そちらの方が印影はきれいでした。
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チケット売り場(天守郭入場券売り場)
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楠門
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天守閣 |
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天守郭はすべて再建とはいえ多門櫓で連結された内側になるので、往時の景色とほとんど変わりはないと思います。ただ、残念なのはトイレの建物が造られていたことです。一応、周りの建物と同調するような外観はしているのですが・・・
また、天守閣内の展示もお世辞にも面白い、または親切な分かりやすい展示とはいえず、いささか残念な気がします。ただ、最上階からの眺めは最高で、紀ノ川河口方向の景色などは、絶景とよんでいいかと思います。また、本瓦葺きとはいえ、一部銅を利用して葺いた屋根瓦は最上階からみるとさらにその造りが分かりやすいです。もちろん、御三家の家格にふさわしく、葵の紋を用いた瓦も見ることができます。
さらに、天守閣をはじめ多門櫓で連結された部分はぐっるっと一周することができます。先の乾櫓や二の門櫓、楠門なども連結された渡り廊下を通ると、当時のお殿様気分を多少なりとも味わえることができるのです。
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西(紀ノ川河口方向) |
天守内にあった和歌山城模型 |
東(本丸御殿跡) |
一部を銅板で葺いている |
立派な鯱 |
鯱に葵の紋 |
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天守北側 |
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南側とちがって、天守郭の北側はほとんど人は訪れません。しかし、この付近の桜のみ満開で美しかったです。さらに、石垣は基本的に自然石をそのまま利用した野面積みだと思うのですが、いくつかの時代を経て何度も積み増し、積み替えがなされたとみて、その痕跡が随所に見られます。また、わたくしの見立てでは、上に乗っかっている建物の重みで歪んでしまったとみえる部分もあり、興味がそそられます。また、利用している石には刻印があるものもあり、それらを見つけるのも面白いかもしれません。
そんな中、最も驚いたのは石垣の途中に設けられた出入り口です。その出入り口からは階段が伸びていて、さらに細い道がふもとまでつながっています。後で調べて分かったことですが、この出入り口は敵の攻撃を受けた際の逃げ道として設けられたものなのだそうです。このような例は、私が知っているお城の中でもいくつかの例がありますが、これほどまでにはっきりと分かるお城も珍しいと思います。
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天守郭北側石垣 |
天守郭北側石垣(転用石か) |
抜け道 |
天守郭北側石垣(野面積み) |
二段になっている石垣 |
抜け道はふもとまで続く |
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本丸御殿跡 |
本丸御殿跡(城内給水所) |
本丸御殿跡から天守閣方向 |
最も美しく撮れる場所だと思います |
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天守閣に登った時点でそのお城はおよそ制覇した感じがしますが、和歌山城は他にも見所がたっぷりあります。たとえば、本丸御殿跡地です。
和歌山城がある標高48.9mの虎伏山はフタコブラクダと同じような形になっており、一つ目のコブには天守郭が、もう一つのコブに本丸御殿跡があります。つまり、本丸御殿は天守閣と同じくらい高所にあり、なおかつ両方をそれぞれ移動する場合は、いったん下った後で登るという形になるのです。
残念ながら、本丸御殿は往時の建物は残っておらず、大正12年(1923)に設置された市水道局の給水所(貯水池)が残されるのみとなっています。ただ、市内にある小倉光恩寺の庫裏は現在まで唯一残る本丸御殿の遺構だということです。
この本丸御殿跡から見る天守閣が最も美しい姿をしていると思われます。ほとんどの観光客は本丸御殿跡へ続く圧倒的な階段を前に見ることをあきらめてしまうみたいですが、ここからの天守閣を見ずに帰るのはもったいないと思います。
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和歌山城の堀 |
岡口門(重要文化財) |
陸奥宗光像 |
東堀越しの天守閣 |
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東堀とよばれる和歌山城に現存する巨大な堀は、北側まで続いていますが、北側の堀よりも圧倒的に規模が大きいのが東側の堀です。この堀の外側には検察庁や裁判所などの機関が集中するエリアです。それらに隣接して「児童女性会館」がありますが、そこには明治時代の政治家で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成功させたことで有名な、陸奥宗光像があります。
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二の丸・西の丸・砂の丸 |
大手門 |
御橋廊下 |
西の丸庭園 |
鶴の渓(たに) |
追廻門 |
徳川吉宗像 |
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そして、北側にある大手門から再び城内へ。ちなみに大手門(大手御門)とよばれるようになったのは、寛政8年(1796)の改称以降のことです。それまでは、一之橋御門とよばれていました。
御橋廊下は二の丸と西の丸を行き来する藩主専用のものです。平成18年に復元されたもので、橋廊下といえば、他にも大分の府内城のものを思い出しますが、和歌山城のものは見ての通り斜めになっている珍しいものです。藩主が利用するため、外から見えないつくりになっているらしいです。この橋廊下がかかる二の丸側には大奥がありました。なるほど、藩主のみしか利用できない理由が分かります。
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城下にて徳川吉宗公の像を発見。紀州藩主時代を象徴してか、割と若いころの吉宗を表現している気がします。
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2009.03.25訪問
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