@大石神社(兵庫県赤穂市) |
大石内蔵助 データ |
生没年 |
1688〜1703.3.20 |
生誕地 |
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名前 |
松之丞 → 主税 大石良金 垣見佐内(江戸潜伏中の偽名) |
人物伝 |
父 大石内蔵助(大石良雄)
母 りく
元禄14年(1701)、赤穂藩主、浅野内匠頭が江戸城内で刃傷におよんだ事件で、赤穂藩が改易になったときは、まだ元服前の部屋住みの身分でした。
その後、内蔵助が京都山科に移り住んだので、ともに山科へ行きました。そこで、主君の浅野内匠頭の仇を討つべく、義盟に加わるため、元禄14年12月、元服して良金と名乗りました。
翌年4月、父の内蔵助は妻りくと離別して、子どもたちとともに実家に帰しましたが、主税だけは父と行動を共にしました。
9月、吉良上野介を討つため、垣見佐内と名乗って江戸へ向かいました。
12月、赤穂浪士たちは吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。その時、主税は裏門隊の大将をつとめました。
その後は、松平隠岐守の屋敷に預けられ、幕府の沙汰を待ちました。しかし、幕府より切腹を言い渡されました。
弱冠16歳で、吉良邸に討ち入った中で最も若い赤穂浪士でした。
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辞世の句 「あふ時は かたりつくすと 思へども 別れとなれば 残る言の葉」 |
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