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全国で出会える歴史人物

藤堂高虎
Todo Takatora
信長・秀吉・家康に仕えた武将
生没年 1556.02.16〜1630.11.09
弘治2年1月6日〜寛永7年10月5日
生誕地 滋賀県犬上郡甲良町在士(近江国犬上郡藤堂村)
関係人物 藤堂虎高
藤堂忠高の娘
久芳院(一色義直の娘)
松寿院(長連久の娘)
藤堂高次(伊勢津藩主)
名 前 与吉→藤堂高虎 (与右衛門)
戒 名 寒松院殿道賢高山権大僧都
■津城(三重県津市)
生涯

はじめ浅井長政に仕えました。初陣は元亀元年(1573)の織田軍との戦い、姉川の合戦です。しかし、主君の浅井氏が姉川の合戦の敗退以降、力をなくしてゆき、天正元年(1573)についに主君の浅井長政が織田信長に討たれた後は、次々と主君を変えていきます。

阿閉貞征、磯野員昌と浅井氏の旧臣にはじめは使えていましたが、その後、織田家に仕え、さらに秀吉の弟、羽柴秀長に仕えました。1万石の大名となったこの時期、秀吉や秀長の家臣として数々の戦功をあげ、とくに天正15年(1585)の九州征伐における根白坂の戦いでの活躍によって、2万石まで加増されました。

秀長の死後、秀長の養子の羽柴秀保に仕えていましたが、文禄4年(1595)に秀保が死んだことによって一時出家してしまいました。

しかし、その後還俗して秀吉に仕え、伊予国板島(宇和島)7万石の大名に出世しました。最終的には、8万石まで加増されました。

秀吉の死後は、家康に接近して、やがて仕えるようになりました。そして、関ヶ原の戦いにおける活躍によって、伊予国今治の20万石の大名になりました。

慶長13年(1608)には、伊賀国および伊勢8郡の領主となって伊勢国津藩22万4千石の大名となりました。家康の信頼は厚く、外様大名でありながら譜代大名格として扱われていました。

最終的には、大阪の役の後に加増され、32万3千石の大大名となりました。

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