はじめ浅井長政に仕えました。初陣は元亀元年(1573)の織田軍との戦い、姉川の合戦です。しかし、主君の浅井氏が姉川の合戦の敗退以降、力をなくしてゆき、天正元年(1573)についに主君の浅井長政が織田信長に討たれた後は、次々と主君を変えていきます。
阿閉貞征、磯野員昌と浅井氏の旧臣にはじめは使えていましたが、その後、織田家に仕え、さらに秀吉の弟、羽柴秀長に仕えました。1万石の大名となったこの時期、秀吉や秀長の家臣として数々の戦功をあげ、とくに天正15年(1585)の九州征伐における根白坂の戦いでの活躍によって、2万石まで加増されました。
秀長の死後、秀長の養子の羽柴秀保に仕えていましたが、文禄4年(1595)に秀保が死んだことによって一時出家してしまいました。
しかし、その後還俗して秀吉に仕え、伊予国板島(宇和島)7万石の大名に出世しました。最終的には、8万石まで加増されました。
秀吉の死後は、家康に接近して、やがて仕えるようになりました。そして、関ヶ原の戦いにおける活躍によって、伊予国今治の20万石の大名になりました。
慶長13年(1608)には、伊賀国および伊勢8郡の領主となって伊勢国津藩22万4千石の大名となりました。家康の信頼は厚く、外様大名でありながら譜代大名格として扱われていました。
最終的には、大阪の役の後に加増され、32万3千石の大大名となりました。
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