@大石神社(兵庫県赤穂市) |
吉田忠左衛門 データ |
生没年 |
1641〜1703.3.20 |
生誕地 |
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名前 |
吉田 兼亮(よしだ かねすけ) 田口一真(江戸潜伏中の偽名) |
人物伝 |
父:吉田助兵衛
子に、同じ赤穂義士の吉田沢右衛門がいる。
足軽として唯一義盟に加わった寺坂吉右衛門の主でもある。
赤穂藩改易によって、浪人となった後は、主君の仇を討つため、家老の大石内蔵助と行動を共にして、義盟に加わりました。当時、江戸には堀部安兵衛などの仇討ち急進派がいましたが、浅野内匠頭の弟の浅野大学を担いで赤穂藩再興を画策している最中だったため、江戸に出て彼らの説得にあたりました。
しかし、その望みが絶たれると仇討ちを決心します。そのとき既に、60歳を超えた老齢に達していました。年齢も高く、人望もあったため、討ち入りメンバーの中では大石内蔵助に次ぐナンバー2とされて、一目置かれていました。
討ち入りの時は、裏門隊に属して、裏門隊大将の大石主税(大石内蔵助の子)の補佐をしました。また、吉良上野介の姿が見当たらず、夜が明けはじめる中で、あせる隊士たちを叱咤激励したことでも知られています。
討ち入り後は、富森助右衛門とともに一行から離れ、大目付の仙石伯耆守の邸に出頭して、幕府に討ち入りの報告をしました。その後は、細川越中守の屋敷に預けられていましたが、結局幕府の命で切腹させられました。
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辞世の句 「君がため 思ぞつもる白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風」 |
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