@大石神社(兵庫県赤穂市) |
堀部安兵衛 データ |
生没年 |
1670〜1703.3.20 |
生誕地 |
越後国新発田 |
名前 |
中山安兵衛 堀部武庸(ほりべたけつね) |
人物伝 |
父:中山弥次右衛門(越後国新発田藩溝口家家臣)
養父:堀部弥兵衛(赤穂浪士)
妻:ほり(堀部弥兵衛娘)
元禄7年(1694)のことです。
江戸の堀内源太左衛門の道場「堀内道場」の四天王といわれていた安兵衛が、同門の菅野六郎左衛門が伊予西条藩士の村上庄右衛門の一味にだまし討ちにあっているところに助太刀に入って一味を討ち果たすという出来事がありました。世にいう、「高田の馬場の決闘」とよばれる事件です。
その時の戦いぶりはすさまじかったらしく、安兵衛の活躍は「高田の馬場の18人斬り」といわれて評判になり、それを知った赤穂藩士の堀部弥兵衛が、娘のほりと結婚させて婿養子とすることにしたのです。
こうして赤穂藩士となった安兵衛でしたが、その矢先、主君の浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだため、浅野家は改易となってしまい、浪人となりました。
その後は、主君の仇を討つため、急進派とよばれるグループに属して江戸で機会をうかがう日々を送ります。家老だった大石内蔵助は、浅野内匠頭の弟の大学を擁して浅野家の再興を計画していましたので、安兵衛ら急進派と別行動をとっていましたが、結局そ望みも絶たれたため、仇討ちを決意します。
安兵衛もその義盟に加わって、行動を共にするようになり、ついに元禄15年(1702)12月15日に吉良邸に討ち入って主君の仇を討ったのでした。安兵衛は裏門隊に属して戦いました。
討ち入り後は、松平隠岐守の屋敷に預けられていましたが、結局幕府の命で切腹させられました。
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辞世の句 「梓弓 ためしにも引け武士の 道は迷わぬ 跡と思はば」 |
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