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生涯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)二度の流人生活 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
薩摩藩の下級武士、西郷吉兵衛隆盛とマサの長男として生まれました。本名を隆永といいます。6歳から儒学を習い始め、8歳ころから藩校の造士館に通い始めました。小さいころから体が大きく、薩摩武士の地域共同体である郷中のリーダー的存在として頭角をあらわしていきます。 しかし、12・3歳の頃そのような西郷の存在が、同じ郷中の上級武士から目をつけられ、喧嘩。右ひじの神経を切ってしまい、剣術で身を立てることをあきらめざるを得なくなりました。その結果、以降は学問で身を立てることを誓いました。 1851年、島津斉彬が藩主になると、そのもとでメキメキと頭角をあらわしていきます。安政元年(1854)には中小姓に任ぜられて、斉彬の江戸参府に随行することになりました。しかし、1858年に頼みの藩主、島津斉彬が他界してしまいます。殉死を決意した隆盛でしたが、清水寺の僧、月照に諭されて、思いとどまることにしました。 この月照という僧は勤王の思想が強く、幕府の大老、井伊直弼による安政の大獄によって幕府から追われる身となります。これに対し、薩摩藩が一度は薩摩でかくまうものの、最終的には「日向送り」にします。これは実質死刑に値する措置です。西郷隆盛はともに日向に船で送られる途中、月照とともに入水自殺を図ります。 この1858年11月16日未明の入水自殺は、月照の死んでしまいましたが、隆盛は未遂に終わります。薩摩藩は月照をかくまった罪に問われることを恐れ、西郷を奄美大島に逃がします。そこで、2年間を過ごすことになりました。 文久2年(1862)に赦免されて島津久光とともに上京をすることになりましたが、ここで西郷は「下関の留まれ」という久光の命令を無視。独断で京都に軍を率いて上京したことから再び、徳之島、沖永良部島へと流罪となってしまったのでした。 |
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(2)倒幕まで | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
薩摩藩はもともと公武合体論をすすめていましたが、それがいきづまってくると尊王思想へと考えを改めていきます。そんなおり、勤王派として知られていた西郷隆盛が再び赦されて召還されるのです。 1864年におこった禁門の変(蛤御門の変)では、会津藩とともに御所を守り、西郷の指揮の下、長州藩を完膚なきまでに打ち破りました。幕府は、さらに長州征討(第1次)を企図しましたが、外圧激しい中、長州を滅ぼすのは得策ではないとし、出兵命令を拒否しました。さらに、土佐の坂本竜馬の仲立ちで長州藩と同盟することにし、幕府による第2次長州征討の時に、武器を供給するなどして、幕府軍を打ち破りました。 この翌年、江戸幕府は徳川慶喜の大政奉還によって滅びでしまいます。 |
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(3)明治維新 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いではじまる戊辰戦争においても、1万5千の旧幕府軍に対し、3千5百の兵力で見事に打ち破りました。さらに、東海道を東進、同年4月11に江戸城の無血開城を成功させました。 戊辰戦争後は、明治新政府の中枢として活躍し、明治4年(1871)には廃藩置県を断行しました。さらに、同年11月からの岩倉使節団が欧米に訪問している間の留守政府を責任者として任されています。その間、太陽暦採用、地租改正、徴兵制などを実施するなど、政治力をも発揮しました。 しかし、その後、帰国した大久保利通、岩倉具視らに自らの「征韓論」を反対され、下野。故郷鹿児島へ帰ってしまいました。 |
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(4)西南戦争にて敗死 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鹿児島に戻った西郷は、私学校を設立し、鹿児島の士族たちの教育にあたっていました。しかし、中央政府の政策を無視するなどしたため、西郷や私学校は目をつけられます。 そんな中、政府による密偵が鹿児島に派遣され、戦争をさせないためにと鹿児島の武器弾薬を他に持ち出そうとしました。その時、私学校の生徒たちが武器弾薬庫を襲撃、西南戦争のきっかけをつくってしまいます。 西郷は、この時戦争を決意し、私学校の生徒たちをはじめとする1万3千で陸路東京をめざして進撃を開始しました。その後、九州各県の西郷軍に加担する人々を合わせ、大軍で政府軍がたてこもる熊本鎮台(熊本城)を包囲しました。しかし、天下の名城だった熊本城は落ちず、西南戦争最大の激戦があった田原坂方面へと転進したのです。 田原坂(熊本県鹿本郡植木町)での戦いは、結局政府軍の勝利におわりました。これによって、西南戦争の帰趨は決定したといってよいでしょう。西郷軍は徐々に後退し、最終的には鹿児島の城山にて最後の決戦を挑みました。政府軍は約4万で城山を包囲し、明治10年(1877)9月24日の総攻撃で、西郷自身も被弾、負傷してしまいます。 西郷は附き従っていた別府晋介に、 「晋どん、ここらでよか」 と言い、切腹。別府晋介の介錯によって亡くなりました。 7か月に及んだ西南戦争は国内最大にして最後の内戦で、両軍の戦死者は1万3千人という壮絶なものでした。 |
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(C)社会科ちゃん | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||