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全国で出会える歴史人物

池田勇人
Ikeda Hayato
昭和時代の政治家、元内閣総理大臣
西郷隆盛中江藤樹
生没年 明治32年(1899年)12月3日 - 昭和40年(1965)8月13日
生誕地 広島県豊田郡吉名村
(現在の広島県竹原市)
関係人物 池田吾一郎
うめ
直子(広沢金次郎(元伯爵・貴族院議員))
満枝(後妻)
直子(長女)
紀子(二女)
祥子(元ブリジストンタイヤ会長石橋正二郎の甥、石橋慶一の妻)
戒 名 大智院殿毅誉俊道勇人大居士
その他 第58〜60代内閣総理大臣
正二位大勲位

広島城(広島県広島市中区)
生涯
(1)政治家以前
明治32年(1899)に広島県竹原市に造り酒屋を営む父(吾一)と母(うめ)との間にうまれました。

旧制忠海中学校、旧制第五高等学校をへて京都帝国大学法学部を卒業。その後、大蔵省へ入りました。しかし、大蔵省時代の宇都宮税務署長時代に落葉状天疱瘡という病気にかかり、長い闘病生活を送りました。その間、一度は大蔵省を退職していましたが、病気が治ったこともあり復職。昭和14年(1939)、大蔵省主税局経理課長さらに昭和16年(1941)には主税局国税課長、そして主税局長を歴任しました。

戦後まもなくの吉田茂内閣の時、石橋湛山蔵相のもとで大蔵事務次官を務め、昭和24年(1949)に衆議院初当選しました。

(2)政治家として
初当選後すぐに第三次吉田茂内閣のもとで大蔵大臣となり、その後も自由党幹事長や通産大臣などを歴任しました。

この第三次吉田茂内閣時代の昭和25年(1950)、参議院予算委員会で発言した内容を新聞が「貧乏人は麦を食え」という見出しで記事にしたことがあり、この言葉は有名となりました。

さらにその2年後、衆議院本会議で答弁した内容を翌日の新聞が「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない。」と書きたてたことから、不信任決議案が提出、可決され、通産大臣を辞任することもありました。

しかし、その後も要職を歴任し、昭和32年(1957)には現在(2010年現在)も続く自由民主党の派閥「宏池会」を創設しました。

(3)内閣総理大臣
昭和35年(1960)に60年安保の混乱で倒れた岸信介の後を継いで内閣総理大臣に就任しました。

その直後に行われた衆議院議員総選挙では自由民主党のテレビCMに自ら出演し、「私はウソは申しません。」と言い、これが当時の流行語となりました。

在任中は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長を推し進めました。外交においては、訪米した際にJ・F・ケネディ大統領と会談もしています、さらに翌年の昭和37年(1962)にはヨーロッパ7カ国を歴訪し、シャルル・ド・ゴール仏大統領との首脳会談などを行っています。また、在任中には、東京オリンピックも行われています。

しかし、その閉会式の翌日、昭和39年(1964)10月25日に辞意を表明しました。そして、その翌年、咽頭癌による手術を受けましたが、その術後肺炎によって亡くなりました。


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