父:金子惟彬(宇和島藩士)
母:直子(那保子)
天保8年(1837)生まれ。少年時代は里子にやられたり使用人として下働きするなど苦労しました。幕末になって脱藩を繰り返し、尊皇攘夷運動に参加した後、明治維新では司法省で働きました。明治24年の大津事件の時に、大審院(現在の最高裁判所)の長官だった彼は、政府の「皇室罪」適用の圧力に屈せず、あくまで「法によって裁く」との信念を貫き、「謀殺未遂」として処断し、司法権の独立を守りました。こうしたことから、彼は「護法の神」と称えられました。
「大津事件」
明治24年5月11日、訪日中のロシア皇太子(後のニコライ2世)が滋賀県大津にいた際、津田三蔵という巡査にきりつけられた事件。皇太子は軽傷で命に別状はありませんでした。この事件において政府は、ロシアとの関係悪化を恐れ、「皇室罪」を適用して極刑に処するように司法当局に迫ったのでした。
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