☆☆☆ 櫓は47棟もあったとされ、全国でもトップクラスだったといわれる
第68話 福岡城
福岡城
関ヶ原の戦いで東軍の主力として活躍し、その功績によって筑前52万石をに封じられた黒田長政がその居城として築いたのがはじまり。櫓の数は47棟もあったとされ、全国のお城の中でもトップクラスだったといわれている。
九州地方の中枢都市として、現在でも目を見張る発展をし続ける福岡市であるが、実は、黒田氏の城下町として発展するもっと以前から、外国と通じる玄関口として存在感を放っていた都市である。
[福岡城図 ]
古代、福岡城内にあたるところには鴻臚館なる外国施設を接待する施設があった。
現在の福岡城跡めぐりは、この鴻臚館跡を訪ねることでもある。実は、福岡城内に鴻臚館があったとする説(鴻臚館福岡城内説)を唱えたのは、九州帝国大学教授の中山平次郎という人物。驚くことに、「医学博士」である。はじめて提唱したのは1926(大正15)年のことであったが、その頃は鴻臚館の位置は博多官内町にあるという説が有力だったということである。
[ 鴻臚館への小路 ]
何度も訪問している福岡城。今回は南側からアクセス。東西に細長い梯郭式の縄張りであるが、まずは東側に位置している三の丸方面へ。右手に警固中学校をみながら鴻臚館跡地へ向かう。
鴻臚館自体は9世紀末の遣唐使の廃止等もあって次第に衰退し、12世紀には廃絶したとのことである。近世に入り、黒田長政が52万石の大名としてこの地に城を築き、福岡は大いに繁栄して現在に至っている。
ちなみに、鴻臚館の跡地には野球場(平和台球場)が建設され、一時、いくつかのプロ野球団の本拠地にもなったが、現在は取り壊され、跡地は舞鶴公園として整備されている。
平和台球場跡。 近年まであった平和台球場跡地。西鉄ライオンズや福岡ダイエーホークスの本拠地にもなった野球場であった。1997年にその役割を終えている。
舞鶴公園の案内板にあった福岡城天守閣復元CC(類推)
しかし、福岡城に天守があったかどうかは未だ結論に至っておらず、論争中である。個人的にはこのような立派な天守があったと信じたい。
[ 鴻臚館 ]
鴻臚館跡展示館と鴻臚館埋蔵調査地区
景観復元図(平安時代)
海に面した鴻臚館が中央に。さらにその左手は地形的に台地状になっているのが分かる。このあたりに福岡城は築かれた。
鴻臚館跡展示館内部。建物跡が整備されてこのように展示されている。
籌木(ちゅうぎ)Wooden stick as toiletpaper
鴻臚館では日本初のトイレが発見されたらしい。奈良時代前半期なので、8世紀前半までさかのぼることになる。この細長い木片は、当時のトイレットペーパーとして使用されていたもの。
[ 二の丸へ ]
東御門
ここから福岡城の二の丸へと向かう。左右に反り立つ石垣が見事である。この石垣の上には、二層の隅櫓と革櫓という櫓が建っていたことが、古写真からわかっている。
水の手とよばれていたこの付近には、ラグビー場と野球場がある。地元の人々が利用する施設となっているのだろう。逆に言えば、それだけの広さを誇った曲輪があったということである。その規模にさすが54万石の大名の居城と納得させられる。ラグビー場があったところは東二の丸と呼ばれていた。二の丸と名が付く曲輪だけでも、他に「南二の丸」「二の丸」がある。
扇坂御門跡
扇坂御門を登った先は、二の丸跡である。この先表御門をくぐるといよいよ本丸である。
表御門跡
祈念櫓
表御門跡をくぐった先、角にある建物が福岡場内で数少ない現存建物の一つ、祈念櫓である。ここは本丸の北東隅、すなわち鬼門にあたるところである。各地にある北東隅の櫓(丑寅の方角にあるので丑寅櫓と呼ばれることが多い)は鬼門除けのため、特別な外観をもつものが多い。お城を訪問する際は、北東隅の櫓の意匠や北東に角をもうけなくさせるための「切り欠き」にも注意してみるとよいだろう。
[ ついに本丸天守台へ ]
天守台跡の複雑な石組み
ここが論争の中心となっている天守台である。石組みは複雑かつ立派で、単なる独立式の天守でないことはよく分かる。どうやら大中小の三つの天守がくっついた連立式の天守だったようである。
石垣は裏御門跡の石垣と連続しているため、姫路城の天守群にみられるような連立式あるいは複合連結式の天守をも想定できるように思う。
天守台からは福岡の市街地が一望できる。台地上に築かれたことがこのような眺めからも実感できるのである。
しかし、その肝心の天守があったかどうかが怪しいのである。 このように礎石まである中で、その存在に関する決定的な証拠がないということである。
この論争問題の行方は新資料の発見や発掘調査の成果などによって明らかになっていくことと思う。今後の展開に期待したい。 個人的には、CGにあるような大天守閣があったと考えたい。
[ 裏御門跡を経由して南二の丸 ]
天守台跡の複雑な石組み
本丸を後にして、裏御門跡を経由して南二の丸(二の丸南郭、南丸)へと向かう。 実は、ここに福岡城で現存する数少ない建物があるのだ。しかも、日本100名城スタンプのデザインともなっている。
南丸多聞櫓
この建物を南丸多聞櫓という。
多聞櫓とは、城壁の役割も兼ねた細長い平櫓を想像するとよい。時にそれは何間もの長大なものになるが、ここの多聞櫓も三十間の平櫓と二層の隅櫓からなる。
嘉永6年(1853)の建て替えということなので、江戸時代からの現存となり、文化的価値も高い。実際、国指定重要文化財となっている。
[ 軍師官兵衛の邸宅跡へ ]
ここは桐木坂御門跡という。
二の丸から西側に抜けるルートの一つである。もうひとつ北側にも抜けるルートがあるが、そちらは松ノ木坂という。
桐ノ木坂から二の丸の外へ出ると、北へ向かう小道がある。右手(東側)には二の丸の石垣があるが、この周辺の石垣は明らかに野面積みである。福岡城内でも石垣の積み方に違いがあるのは興味深い。きっと長い歴史の中で、幾度かの補修を繰り返してきた証拠なのだろう。
この石垣を見ながら北へ向かう。下の橋大手門へと向かうルートである。このエリアは西側に福岡市美術館や舞鶴中学校があり、広大な敷地が広がっている。
舞鶴中学校の北隣にあるのが名島門である。
この名島門があった付近は黒田如水(官兵衛)の隠宅があった場所でもある。あの軍師官兵衛が晩年を過ごした場所である。さらに、名島門をくぐって西へと進むと大濠公園だ。この大濠公園には、巨大な池があるが、元々は博多湾の入り江であったのを、福岡城を普請する際、外堀としたものである。何と大きなお城であろうか。
[ 「酒は飲め飲め」ゆかりの場所 ]
大濠公園には今回は向かわず、さらに北へ。 次に見えてくる福岡城ゆかりの建物は、旧母里太兵衛邸長屋門である。
建物自体は移築されてきたもので、この地に邸があったわけではないが、黒田二十四騎のひとりである母里太兵衛(母里但馬守友信)は知る人ぞ知る人物である。 黒田節「酒は飲め飲め・・・」のモデルとなった人物である。あの福島正則から日本三名槍のひとつ「日本号」を「飲み取った」エピソードが有名である。詳細をここで言及することを避けるが、なかなか興味深い話なので、機会があったら紹介もしてみたい。
潮見櫓が見えてきた。
ここが下の橋大手門である。主に三つある城内への出入り口のひとつである。
ここが下の橋大手門である。主に三つある城内への出入り口のひとつである。明治時代初期の古写真も残っており、これらの検証のもとに下之橋御門は平成20年に復元された。失われた理由は不審火だったとのこと。何とも惜しまれる。古写真と現在の姿とほぼ同じアングルで撮影したもの。
幅の広い堀
外堀は現在でも美しい姿をとどめている。堀端のつつじを鑑賞するのにもよい時期であった。
( 2012年(平成24年)5月 3日 訪問 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 810-0043 福岡県福岡市中央区城内 |
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交通 | 地下鉄空港線 大濠公園駅 赤坂駅 |
リンク | 福岡城むかし探訪館 http://fukuokajyo.com/ |
別名 | 舞鶴城、石城 |
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城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守 | 不明 天守台は残るが実際にあったかどうかは諸説あり |
築城主 | 黒田長政 |
築城年 | 1601年(慶長6年) |
主な改修者 | |
主な城主 | 黒田氏 |
文化財指定等 | 日本100名城(85番) 国指定史跡「福岡城跡」 |