第55話 二本松城
〜二本松藩と二本松城〜
あの会津戦争の前哨戦、二本松城の攻防戦の際に出陣した「二本松少年隊」のエピソードは有名でしょう。12歳で出陣、戦死とは今では考えられない話です。それも新政府軍の圧倒的な兵力と火力の前にはこの城はまともに戦えるほどの堅固さはもっていません。二本松少年隊のことを偲びながらのお城訪問となりました。二本松城といえば、戊辰戦争の「二本松少年隊」を真っ先に連想します。むしろそれ以外の知識はほとんどなかったのですが、もともと二本松は、あの織田信長の重臣、丹羽長秀につながる丹羽氏10万石の城下町。驚きました。
〜二本松少年隊群像〜
この日は早朝7時前からの登城。ほぼ貸し切り状態でお城の散策ができました。まずは「二本松少年隊群像」。最初に飛び込んでくる銅像の数々。少年が大砲を操作し、真剣を振る姿は何も予備知識がなかったらそれはもう驚くことと思います。
傍らで軍服を縫っている母の像がさらに涙を誘います。 こんなことがつい最近(とはいっても150年くらいか)に日本の各地でおこっていたってことがなんとまぁ不思議な感覚。彼らがかわいそうだと思うのは確かですが、人は皆「時代の子」。当時の状況から考えるとこんなことも不思議ではなかったのかもしれません。 現在に生きる我々の感覚からすれば、こんな事は二度とおこってほしくないと考えるのが当然です。それもこれも総じて、過去の史実を知った上で考える事ができるからでしょう。歴史学の役割のひとつがこんな事からも言えそうな気がします。
〜霞ヶ城へ〜
この二本松城は「霞ヶ城」なる別名があるようで、二本松城址一帯も「霞ヶ城公園」と呼ばれています。全国に「霞ヶ城」という別名を持つ城が散在し、ちょっとだけ混乱します。ちなみに山形城は「霞城」。ややこしい。
案内図からも分かるように、このお城は平山城のようです。現在の正門にあたる箕輪門から本丸を目指して山登りです。途中途中に見所が散在しているので、それらを訪ねながら行きます。
〜箕輪門〜
現在のお城の正門ともいえる門。三の丸に続いています。門の脇には「大城代 内藤四郎兵衛戦死の地」とあります。城門を開いて敵に切り込み、獅子奮迅の働きをした後に戦死したとあります。壮絶です。
そして、立派な門をくぐると割と大きめの枡形があり、三の丸に到達します。案内図では二の丸の表記がなく、どこか分からず。仕方ない。本丸を目指します。
〜 修繕中!? 〜
この「修繕中」とおぼしき建物。ところがこの「修繕中」の理由はその直後に分かる事になりました。
見てみると、不自然な外壁の破損。壁の一部がはがれ、石垣に似せた化粧石がはがれ・・・。そうです。これはこの数ヶ月前におこった東日本大震災の爪痕。自分のイメージはメディアから得た情報のみでつくっていたもの。海岸、津波・・・。しかし、その影響は予想外に大きいものであったということが実際に来てみれば分かります。
ちなみにこの公園中央広場には「二本松製糸株式会社」なる会社があったということで、その創始者である「山田脩翁銅像」がありました。日本最初の民間機械製糸の草分けとの事。明治6年創業との事ですから、戊辰戦争からわずか4年ほどしか経っていない時期。その事を考えるとなかなかすごいのではと思わされます。
〜 本丸へ 〜
本丸への登り口
さぁ、登城。まだ朝の8時前。あちこちに訳の分からなかったり、読めなかったりする石碑が全国のお城跡には立っているものですが、ここにあったのは、明治天皇駐蹕碑、明治9年(1876)の東北巡幸に際して天皇が先に紹介した二本松製糸会社を見学したことを顕彰する石碑だとか。
きれいな、そして美しい滝が朝の涼しい時間に更なる涼を与えてくれています。相生の滝というそう。そして、県指定重文、「洗心亭」。数寄屋造からも分かるように茶室です。建立時期は定かではないらしいですが、明治40年(1907)に当地に移築されてきたとの事です。
樹齢300年を越すといわれるアカマツの巨木。霞ヶ城の傘マツといいます。立派。アカマツらしい。松茸・・・見つからず。当たり前ですね。さらにその西隣には樹齢300~400年といわれるイロハカエデの巨木。どうやら、寛永~明和年間にかけてこの周辺に池泉回遊式庭園が整備されていたそうで、そのときに植えられた楓がこうやって巨木としてのこされているそうです。
ここにも石碑(歌碑)。土井晩翠による歌碑。晩翠は東北ではあちこちで足跡が見られます。 「花ふぶき 霞が城の しろあとに 仰ぐあたたら 峯の白雪」 なるほどここからは安達太良山が見られるのかと、見晴らしのよいところを探します。
しかし、曇って見えず・・・。残念でした。
またまたあった石碑。次なるは「智恵子抄詩碑」あの彫刻家で詩人の高村光太郎夫人をうたった詩。達筆すぎて読めません。
〜 少年隊の丘 〜
そろそろ本丸だろう。と思うくらい登ったところにある「少年隊の丘」。少年隊とはもちろん「二本松少年隊」のことで、顕彰碑や奮戦時のレリーフなどがおかれています。この広場は彼らが訓練時に使用していた場所との事です。
〜 搦手門の遺構 〜
ここにきてほぼ初の二本松城の当時の遺構が見られました。搦手とはお城の正門である大手門に対する裏門の事。創建当初は堀立柱(栗材)の冠木門だったことが調査にて分かっていますが、その後は屋根のある門が造られていたことが当時の絵図から分かっています。礎石も残されており、修築されたとはいえ、石積みが保存状態よく残っています。
いよいよ本丸。平成5年(1993)から2年もの歳月と約5億3千万円の費用を投じて全面修築復元工事を行った成果。天守台もあるとの事で、この二本松城探訪のメインとも呼べる場所。
ところが・・・ 「立ち入り禁止」「危険なため立入禁止とします」 ここにも震災の影響が。巨費を投じて復元工事した石垣さえ、崩壊の危険性があるという事でしょう。残念です。しかし、乗り越えていくことは簡単です。自己責任ってことでしょう。
下まで下りる途中に「日影の井戸」なる井戸を見つけました。「日本の三井戸」のひとつだとか。
( 2011年(平成23年)8月5日 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目 |
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交通 | JR東北本線 二本松駅から徒歩約20分 |
URL | 二本松城(霞ヶ城) - 二本松市 |
別名 | 霞ヶ城、白旗城 |
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城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守 | 不明 |
築城主 | 二本松満泰 |
築城年 | 室町時代中期 |
主な改修者 | 丹羽光重 |
主な城主 | 二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏 |
文化財指定等 | 日本100名城(12番) |