第60話 箕輪城
〜箕輪城絵図 〜
箕輪城全図。かなり正確です。
今回のコースは地図左下、虎韜門から。現在は林の中にあるといった感じになっており、一見お城があったとはわからないほどになってしまっています。
虎韜門→鍛冶曲輪→三の丸→二の丸→郭馬出→二の丸→本丸→御前曲輪 というルート
〜箕輪城絵図 〜
JR高崎付近のホテルから自転車で訪問。 北関東の地形、とても特徴的で自転車での移動はなかなか面白い。
関東平野の縁にあたり、北部の山地から緩やかに伸びてくる台地がたくさんあり、そこを横切るように移動するので、自転車ではアップダウンをすごく感じます。 高崎の市街地から箕郷までは緩やかな登り。余談ですが、この箕輪城訪問の後には同じく富岡製糸場まで足を伸ばしました。箕輪城から安中、富岡へは2つの丘陵を横切るアップダウン。遠く榛名山を借景に広がるのどかな田園風景には大変癒されました。
このように台地上の尾根らしき地形がそこかしこにみられ、それらの間には大体、川が流れています。自然の要害として築城には最適だと思わず感じてしまいます。箕輪城もそんなお城の一つ。河岸段丘の上にある台地に曲輪が配置され、周囲は川や沼に囲まれている要害の城です。
まずは100名城スタンプゲット!
レトロ感を十分感じさせる「高崎市箕郷公民館」日本百名城「箕輪城」の幟がひときわに立派。
〜 虎韜門 〜
箕輪城の縄張りの西側にあたる主要な門。案内図には大手虎韜門とあり、箕輪城の正門として、重要な門だったことが伺えます。元々は、反対、東側の搦手門が大手門だったようで、その後の改修工事によって、こちらの方を大手門としたようです。
〜 鍛冶曲輪 〜
そこから箕輪城に入っていくわけですが、林の中を歩いている感覚になります。木々が林立し、登城路だったところに道がある程度です。したがって、各曲輪跡には立ち入ることすら困難なところもたくさんあります。この付近にあった鍛冶曲輪もそうです。しかし、立派な石垣が見られます。
積み方としては野面積みのように見受けられます。若干、石が丸い気がします。石材の調達先として川原の石を用いたのでしょうか。 そして、その先が三の丸。
〜 三の丸 〜
この付近は三の丸門跡。
両側に石を積み上げた幅5.7mの通路跡が確認されたそうで、現地の案内板には、「両側の石垣を渡した櫓があり、その下が通路となっていた」とありますから、いわゆる櫓門形式だったと考えられます。
かつて三の丸があったあたり。整備はされておらず、立ち入るのが困難ほどの藪になっています。
〜 二の丸 大堀切 郭馬出 〜
三の丸の先には二の丸。
大堀切
実は、この三の丸と二の丸の南側には大堀切という巨大な堀切がありました。現在でもその姿は確認できます。往時はもっと深くて広いものだったに違いありません。
郭馬出へ(両端は大堀切)
そこから、一旦本丸と反対側の大堀切をまたぐ土橋を渡ってみます。城の絵図には郭馬出とあり。 大堀切の先、細長い土橋の先にあった出丸。
郭馬出
一般的に「馬出」とよばれる曲輪は、様々な考えがあることと思いますが、私は「堀切の外に城内の兵を集結させるための場所」と解釈しています。 そこは、反撃や逃亡を図る際の拠点となる場所です。日本の城は、たくさんの出入り口があって、単純に防御のためと考えるには説明が付かないような気がします。籠城だけを目的とするならば、入り口を一箇所に限定し、深い堀や高い城壁で周りをぐるっと取り囲めばいいからです。したがって、日本のお城の縄張りは、籠城戦においても、常に反撃や逃亡の際を想定して行なっていたと考えるのが自然ではないでしょうか。 お城の正門を大手門(追手門)と呼び、敵を追い払う。そして裏口である搦手門から反撃での勝利や逃亡の成功を「搦め捕る」。こじつけかも知れませんが、大手(追手)と搦手の意味も説明が付くように思います。
実は、この箕輪城訪問のときは企画されていませんでしたが、この郭馬出の西側の門が再建されることになりました。発掘調査で礎石が残っていたことや様々な考証から復元の許可が下りたものと考えられます。関東では最大規模の城門跡なのだそうです。同じく、本丸西虎口門も復元されることになっています。
〜 もう一度城内へ 〜
大手門からみた城内絵図
といっても井伊直政が入城して城の縄張りを再構築した結果、この絵図に描かれてある大手門は正門としてではなく裏門、すなわち搦手門となりました。代わりにはじめに通った「虎韜門」が大手となったようです。
元の大手門方面へ。現在の遺構では搦手門と説明がある門。今回は時間もなかったので、写真だけ撮影して本丸を目指します。
本丸が見えてきました!
〜 本丸 〜
もう一度城内へ土橋を渡り、二の丸を突っ切ると本丸に至ります。 広い曲輪は草むらで覆いつくされており、往時の様子はよくわかりません。しかし、かわらけや陶片などが出土したとのことで、城主の住む建物や軍議を開いたり、酒宴を催したりする館があったと推定されています。
本丸の北側には、通路を兼ねていた掘切と御前曲輪へと通じる北虎口、東側には現在でも確認できる土塁が伸びています。 なかなかの規模。
〜 御前曲輪 〜
北虎口の先、御前曲輪なる詰めの曲輪です。案内板によると、やはり「この郭(曲輪)は本質的には本丸の一部であった」とあります。落城の際、城主、長野業盛はここにあった持佛堂に入って自刃し、一族郎党みな後を追ったと伝えられています。
昭和2年に発見された井戸から多数の五輪塔などの墓石が発見されたほか、西南隅には櫓の痕跡が見つかっています。 古井戸は整備され、覆い屋根が設置されていました。発見のきっかけは豪雨による地盤沈下だったそうで、調査によると深さは20mだったとのこと。
夏草や 兵どもが 夢の跡
松尾芭蕉の句です。案内板によると筆者は安田一雨(元文5年(1740)〜文政11年(1828))なる人物で、この地域出身の人物とのこと。
長野業盛(ながのなりもり)
「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」 箕輪城の城主。後北条氏の家臣で、武田氏と争う。永禄9年(1566)に武田信玄から2万の大軍で箕輪城に攻め込まれ落城。9月29日、御前曲輪にあった持佛堂で自害したという。享年23。
( 2011年(平成23年)8月8日 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか |
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交通 | 高崎駅から群馬バス「箕郷行き」で約30分「箕郷本町」下車、徒歩約20分 高崎駅から群馬バス「伊香保温泉行き」で約30分「城山入口」下車、徒歩約5分 |
URL | 箕輪城跡(高崎市の文化財) |
別名 | なし |
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城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守 | なし |
築城主 | 長野業尚 |
築城年 | 永正9年(1512) |
主な改修者 | 武田氏、後北条氏、井伊氏 |
主な城主 | 長野業正、内藤昌月、滝川一益、北条氏邦、井伊直政 |
文化財指定等 | 日本100名城(16番) 国指定史跡 |