第11話 松代城
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【第4次 川中島合戦 八幡原古戦場跡 信玄と謙信】
松代は善光寺の門前町として発展した長野市内にある。とはいっても、市街地からは数キロも南で、かつ千曲川を隔てているので、同じ長野市とは思えない雰囲気がある。長野の中心部が門前町だとすれば、ここは中世から続く城下町。長野市街からは川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が戦ったあの八幡原を経由していくことになる。川中島古戦場からは千曲川を隔てた至近距離にあり、当時も海津城という武田氏の前線基地だった。
戸隠山が遠くにみえる(右(下)写真)
戸隠山は日本神話の天照大神と天岩戸の話から名付けられている。
[ 松代城訪問 ]
ここは、信玄と謙信が戦っていたころ、武田方の重臣、高坂弾正昌信が入り、北信濃の拠点としていたところだ。現在は確認できないが、三日月掘や丸馬出など甲州流築城法にのっとった縄張りをしていたことが分かっている。
説明板には、往時の松代城の様子の絵図があり、その中では三日月掘などが本丸南正面に確認できる。躑躅ヶ崎館をはじめとする武田氏ゆかりのお城ではこの三日月堀と丸馬出の組み合わせは定番である。武田氏家臣の流れをくむ真田家もそうであった。大坂夏の陣で築かれたといわれる真田丸は、まさに三日月堀に丸馬出の組み合わせである。ちなみに、当時はこの松代城は海津城とよばれていた。
外堀や三日月掘があった本丸南側は、現在は堀はなく、公園の一部としてきれいに整備されている。周りを見てみると土塁が再現されていて、当時の地形がなんとなく分かるようになっていた。
【国史跡 松代城跡】附新御殿跡
【南門】この付近、三日月堀と丸馬出跡
【前橋】本丸虎口
【二の門】櫓門形式の立派な門
【二の門】門から本丸をのぞく
今や当時の面影の無い三日月堀跡地から本丸の宝を見ると、本丸正門の虎口がある。現在は復元された建物が建っており、松代城の顔となっている。この橋を渡り、橋詰門をくぐった先は枡形になっており、その先に二の門として二層の櫓門がある。絵図面などをもとに木造、栃葺で再現されていた。ただ、これからすぐに本丸へと行くのも芸がないと北側に回ってみることにした。絵図によると、本丸へはこの南側虎口のほかに、北側と東側にも入口があったからだ。
[ 北不明門付近 ]
【埋門】
【北側の新堀】
北側に内堀沿いに回ってみると、穴門といっていいほどの小さな埋門が再現されてある。ここをくぐった北側には内堀はなく、東西南の三方を囲っていたようだ。松代城の北側は南側ほどの防御力はないように見える。
【不明門の塀】
さて、その北側に回るとここにも再建された建物があった。北不明門とよばれる門だ。ここも桝形になっており、二つの門で守られている。ただ、南側が本丸に突っ込んだ形で枡形があるのに対し、この北側の桝形は本丸から突き出た形になっている。さらに、桝形にするために通常であれば、堀や石垣で地形をつくるところだが、ここのは塀で仕切った簡易なものになっていた。先にも述べたが、北側の防御力が弱そうに見える理由の一つである。
【不明門一の門(表門)】
【枡形内から】
【ニの門】
櫓門形式ではあるが、やはりすこし物足りなく見えてしまう。
[ 本丸 ]
【天守台】
北不明門付近すぐに本丸天守台が見える。野面積みで積まれた立派な石垣だが、残念ながら天守は乗ったことはないそうだ。今では、この天守台の上から周囲に見える山々や千曲川、川中島付近の善光平を一望できる。
この景色に感動したのは先人も同様で、ここから写生したと思しき江戸時代の画家による見事な山々の風景画が残されている。
私が訪れた当日は、天守台の上には遠足できたと思われる高校生らしき団体がたくさんいた。
本丸の全景と東不明門跡
[ 城下町めぐり ]
松代は真田家の「お兄ちゃん」真田信之を始祖とする松代藩のお膝元。真田家ゆかりの品々を展示する宝物館や旧藩校の「文武学校」がある。
また、幕末に活躍した思想家、佐久間象山の誕生地でもある。上の写真は、佐久間象山の誕生地と彼を祭祀する象山神社。ちなみに、自分が訪問した時は新御殿(真田邸)は工事中であった。
ちなみに、自分が訪問した時は新御殿(真田邸)は工事中であった。また、真田公園の一角には「童謡の森」なるエリアがある。詳しくは無いが、「子鹿のバンビ」なる曲の石碑があり、松代出身の作家、坂口淳氏を顕彰している。
[ 城下町めぐり(象山地下壕) ]
太平洋戦争末期、本土決戦に備えて、大本営を松代に移す計画があった。こうして、昭和19年(1944)から始まったのが松代地下壕の大工事である。政府機関などはこのように地下につくることを想定して、その規模は巨大なものとなった。しかし、象山の内部に網の目のように掘られたトンネルだが、完成をみないまま終戦を迎えました。工事に駆り出された人は主に強制労働者として朝鮮半島などから移住させられた人々で、待遇改善を要求したり、逃亡を企てるなどしたため300人(一説では千人)もの人が射殺されるなどして死亡したそうである。現在は、その地下壕の一部、519mが公開されている。
中は無料だが、ヘルメットをかぶって入っていくなどかなり本格的。私が行ったときはほとんど終了時間だったため、見学者が他におらず一人での見学となった。真っ暗な地下壕は外気よりかなり低めで恐怖が先に立つ。正直かなり恐ろしかった。一番奥までは到底行けず、途中で引き返してきたが、後ろも振り向かず振り向けず・・・。トンネルの出口付近でサングラスを落としたことに気がついたが、結局取りに戻れずじまいでだった。・・・怖い。
【松代城の100名城スタンプ設置場所移動について】 >>公式ページ
平成27年4月より、真田邸(松代城跡附新御殿跡)に変更になりました。
( 2009年(平成21年)5月1日 訪問 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 長野県長野市松代町松代44 |
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交通 | JR長野駅からバス「松代駅」下車徒歩 ※松代駅なる鉄道駅はありません※ |
リンク | 真田宝物館 |
別名 | 海津城、貝津城、長野城 |
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城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守 | 不明 |
築城主 | 武田信玄 |
築城年 | 永禄3年(1560) |
主な改修者 | 田丸直昌 森忠政 |
主な城主 | 武田氏 森氏 真田氏 田丸氏 |
文化財指定等 | 日本100名城(26番) 国指定史跡 太鼓門、堀、石垣、土塁など |