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  • 第62番 和歌山城
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    100名城スタンプ設置場所;和歌山城天守閣楠門受付

    スタンプは楠門にある受付のほか、天守郭の入場券売り場にもある。デザインは岡口門と天守閣を重ねた場所。割と簡単に見つけられる。

☆☆☆ 暴れん坊将軍、御三家。あなどれない紀州の名城

第04話 和歌山城

< 03話 安土城 | 05話 金沢城>

 

和歌山城は「御三家」のお城。家康の第十子である徳川頼宣を藩祖とし、55万5千石で「南海の鎮」とした。なお、紀伊徳川家五代当主は、後に江戸幕府第八代将軍となる吉宗。吉宗は、ここ和歌山城に33歳まで藩主として活躍していた。

水戸城はともかく、同じ御三家の名古屋城と比べるとどうしてもお城の規模といい、いろいろと見劣りしてしまう。しかし今回、堀を一周してみたが、このお城の規模はなかなかのものだった。和歌山市内を流れる和歌川をはじめとする川は、往時はすべてお城を取り囲む堀だったということなので、かなり大きなお城だったことがわかる。

 

和歌山城にやってくるのはこの時で二度目。最初の時もつぶさに見て回ったつもりだが、今回はさらに詳しく見て回ろうと思い、数時間も城内外をうろうろした。

 

新裏坂

 

新裏坂 

 

野面積み石垣 

和歌山城は駐車場が裏手にある。

いわゆる大手門とは完全に反対側で、割と閑散としている。入口は不明門(あかずのもん)といっていたらしいので、日常で使用されることはなく、あまり重要視されていなかった門だったのかもしれない。しかし、そこから本丸までは新裏坂という登りを経由するとすぐに到達できる。

 

石垣に根を張るケヤキ 

その新裏坂の途中にはたくましく石垣に根を張るケヤキの木があって驚いた。不安定な斜面に根をしっかりとはる姿からしてかなりの樹齢だろう。

 

本丸

 

本丸から天守を見る 

 

地図だとちょうどこのあたり 

天守の直下に到達。新裏坂経由だとすぐである。

 

 

新裏坂から本丸へと登ってくると二の御門櫓の正面に出る。石落としは典型的な姿をしており、他のお城と同様のつくりだ。それでいて、やはり城壁を登って侵入しようとする敵には効果的なものだったに違いない。

下から見上げるとかなりの威圧感を感じる。いくら命令があったとしても、この真下の石垣を登るのは、攻め手の勢いを差し引いてもいやだっただろう。

この二の御門櫓を含めた天守郭(くるわ)は、大小天守をはじめすべて多門櫓で連結されている。これらの建物は戦災によって焼失したため、戦後、鉄筋コンクリートで再建されたものであるが、外観は当時のままの姿をとどめており、いわゆる外観復元天守となっている。

余談だが、外観復元天守は全国の様々なお城でみられるが、大変合理的である。鉄筋コンクリート造でありながら、当時と変わらない姿を見ることができるので、一石二鳥である。一方、当時のままに木造で再建をする動きが一部でみられるが、議論の分かれるところだろう。

 

楠門 

これら天守郭の入口は楠門といって、総楠木造りだったのでその名がついたが、例外なく惜しくも戦災の犠牲となってしまった。よって、戦後に再建されたものである。

現在の楠門入口に天守郭につながる券売所があって、そこで天守郭および天守閣の入場券を購入して入っていくことができる。

チケット売り場(天守郭入場券売り場)/楠門 

天守郭の入場券売り場では、日本100名城スタンプを押すことができた。ただし、楠門にも同じスタンプが置いてあり、そちらの方が印影はきれいである。色も違う。

 

次は、いよいよ天守郭である。

 

本丸

天守郭はすべて再建とはいえ多門櫓で連結された内側になるので、往時の景色とほとんど変わりはないはず。ただ、残念なのはトイレ。一応、周りの建物と同調するような外観はしているが・・・

郭全体が多聞櫓や塀で囲まれ、北東に小天守、南東に大天守を配置した連立式。さすが御三家の居城。

乾櫓/天守入口・小天守 

三宝柑/天守郭 

トイレ(右) 

 


 

天守からの眺め(紀ノ川河口方向)

全国津々浦々のお城の天守には、さまざまな展示があるが、ここもそのひとつ。これといって特筆すべき内容はない。しかし、最上階からの眺めは最高で、紀ノ川河口方向の景色などは、絶景とよんでいいだろう。また、本瓦葺きとはいえ、一部銅を利用して葺いた屋根瓦は最上階からみるとさらにその造りが分かりやすい。

さらに、見学にあたっては、天守をはじめ多門櫓で連結された部分はぐっるっと周ることができる。先の乾櫓や二の門櫓、楠門なども連結された渡り廊下を通ると、当時のお殿様気分を多少なりとも味わえることができる。

天守模型

二の門櫓/乾櫓 

 


 

葵の紋と鬼瓦

もちろん、御三家の家格にふさわしく、葵の紋を用いた瓦も見ることができる。

 

天守北側

南側とちがって、天守郭の北側はほとんど人がいなかった。

しかし、この付近の桜のみ満開!思わずたくさんの写真を撮影。独り占め!


 

野面積み石垣

重みで変形してしまったか?

石垣は基本的に自然石をそのまま利用した野面積みだと思うが、いくつかの時代を経て何度も積み増し、積み替えがなされたとみて、その痕跡が随所に見られる。また、上に乗っかっている建物の重みで歪んでしまったとみえる部分もあり、逆に興味深い。

また、利用している石には刻印があるものもあり、それらを見つけるのも面白いかもしれない。空襲によって天守は太平洋戦争中に焼失したが、その時の痕跡だろうか。赤く焦げたような石もみられる。また、転用石とおぼしき石など、探してみるとさまざまな石が用いられている。

 

転用石?

 

秘密の逃げ道発見

逃げ道は麓まで通じている

この細く目立たない道は、なんと「秘密の抜け道」。敵の攻撃を受けた際に、こっそりと脱出するための通路なのだとか。

最も驚いたのは石垣の途中に設けられた出入り口。

その出入り口からは階段が伸びていて、さらに細い道がふもとまでつながっている。後で調べて分かったことだが、この出入り口は敵の攻撃を受けた際の逃げ道として設けられたものなのだそうだ。このような例は、私が知っているお城の中でもいくつかの例があるが、これほどまでにはっきりと分かるお城も珍しいだろう。

 

本丸御殿跡

ここからの天守がもっとも美しい

天守に登った時点でそのお城はおよそ制覇した感じがするが、和歌山城は他にも見所がたっぷりある。本丸御殿跡地によらないわけにはいかない。

和歌山城がある標高48.9mの虎伏山はフタコブラクダと同じような形になっており、一つ目のコブには天守郭が、もう一つのコブに本丸御殿跡がある。つまり、本丸御殿は天守閣と同じくらい高所にあり、なおかつ両方をそれぞれ移動する場合は、いったん下った後で登るという形になる。

残念ながら、本丸御殿は往時の建物は残っておらず、大正12年(1923)に設置された市水道局の給水所(貯水池)が残されるのみとなっている。ただ、市内にある小倉光恩寺の庫裏は現在まで唯一残る本丸御殿の遺構だということである。こちらの遺構は未だ訪れていない。

この本丸御殿跡から見る天守は大変美しい。ほとんどの観光客は本丸御殿跡へ続く圧倒的な階段を前に見ることをあきらめてしまうようだが、ここからの天守を見ずに帰るのはもったいないだろう。

本丸を後にする・・・表坂を下って松の丸

野面積み石垣

山城や初めの頃のお城に多いイメージのある野面積み石垣が大名の居城で見られるのは珍しい。一見、手抜きしたようであるが、野面積みの固有のよさもあり、これはこれで好きな石垣である。

 


そして松の丸へ

松の丸は本丸と天守郭をの南側をぐるり囲む形で作られている。眼下には南の丸。少し幅の広い帯曲輪といった役割になっている。ここからさらに一段下が南の丸をはじめ、内堀のほとりとなる。

 

 

表坂を経由してさらに一段下へ。

東堀〜岡口門を出ると有名人が

東堀越しに中心部を見る

東堀とよばれる和歌山城に現存する巨大な堀は、北側まで続いている。

そのうち、北側の堀よりも圧倒的に規模が大きいのがこの東側の堀である。弓矢から鉄砲へと飛び道具が変化するにしたがって、防御する側もその射程距離を考慮して、幅の広い堀をつくるようになった。こうして規模の大きい巨大な堀が見られるようになってくる。

岡口門(重文)

東堀の外側には検察庁や裁判所などの機関が集中するエリア。岡口門をくぐって、一旦外に出る。ちなみにこの岡口門、国指定重要文化財となっている。空襲を逃れた数少ない建物である。小規模ながら櫓門形式となっており、格式も高い。

陸奥宗光像

近くには「児童女性会館」なる建物がある。なんとそこには、明治時代の政治家で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成功させたことで有名な、陸奥宗光像がある。ここ和歌山出身の陸奥宗光は幕末は坂本龍馬とともに行動しており、龍馬にとってはいい舎弟だったことだろう。

二の丸・西の丸・砂の丸

大手門

そして、北側にある大手門から再び城内へ。ちなみに大手門(大手御門)とよばれるようになったのは、寛政8年(1796)の改称以降のことです。それまでは、一之橋御門とよばれていました。

紅枝垂桜


虎伏像

切込みハギ積みの石垣(虎伏像前)

化石の見られる石

鳶魚閣


御橋廊下

御橋廊下

御橋廊下は二の丸と西の丸を行き来する藩主専用のものだった。平成18年に復元されたもの。橋廊下といえば、他にも大分の府内城のものを思い出すが、和歌山城のものは見ての通り斜めになっている珍しいもの。藩主が利用するため、外から見えないつくりになっている。

この橋廊下がかかる二の丸側には大奥があったとのこと。なるほど、藩主のみしか利用できない理由が分かる。


追廻門(重要文化財)

徳川吉宗像

徳川吉宗像

城下にて徳川吉宗公の像を発見。紀州藩主時代を象徴してか、割と若いころの吉宗の姿。

和歌山城( 2009年(平成21年)3月25日 訪問 )

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 〒640-8146 和歌山県和歌山市一番丁3
交通

JR和歌山駅からバス(0系統、25系統)公園前バス停下車

南海和歌山市駅からは徒歩約10分

公式サイト トップ|史跡和歌山城(公式)
別名

虎伏城、竹垣城

城郭構造 梯郭式平山城
天守

連立式層塔型3重3階(1605年または1619年築・1850年再)

外観復元(1958年再)

築城主 豊臣秀長
築城年 天正13年(1585)
主な改修者 浅野幸長、徳川頼宣
主な城主 豊臣氏、浅野氏、徳川氏
文化財指定等 日本100名城(62番)
国指定史跡
国指定名勝(西の丸庭園)
[ 国指定重要文化財 ]
岡口門、続塀
[ 和歌山市文化財 ]
追廻門

 

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