第59話 金山城
〜[ 金山城 ] 北関東屈指の山城!〜
2011年夏の城めぐり。初めの頃は豪壮な天守閣や石垣、特徴的な櫓などみどころ多数のその名の通りの名城を見られましたが、北関東に入ってからの100名城は正直「微妙だな・・・」と思い始めていました。 ところが、このお城はなかなかの山城。秀吉の小田原攻めのときに落城して、それ以降は廃城となっていたようですが、近年の復元工事の成果もあって、見どころの多い城跡となっていました。
〜 史蹟 金山城跡 〜
東武鉄道の太田駅から徒歩50分という案内がありますが、今回の旅は車を使っていたので、そのまま山の中腹まで進めます。所定の駐車場に車を停め、そこからは徒歩で本丸を目指します。 案内図が充実しており、さらに連郭式の山城なので、尾根伝いにまっすぐ進めば、主要な曲輪を巡りながら本丸へと到着するはずです。
写真は駐車場からは本丸とは逆、尾根の突端にある見附出丸。写真だけ撮って本丸へ。
案内図が分かりやすい。現在地は赤丸のところ。尾根を伝いながら本丸を目指します。途中には堀切や曲輪があります。お城の攻め手もこのような障害を乗り越えながら本丸を目指していたことでしょう。
西矢倉台西堀切
駐車場から本丸(実城という)へと向かう際、全部で4つの堀切をまたぐ形になるとのことですが、この堀切はその一つめ。騎馬武者が動けるほどの幅と深さがあったようですが、現在では人工的な溝があるのみ。このように、山奥に人工物が忽然と現れるのは不思議です。また、復元された木柵もあります。
西矢倉台下堀切
この堀切は西矢倉台の西下にあったもの。実城へと向かう際に出会う二つめの掘切です。さきほどの西矢倉台西堀切とちがって、通行には使用されていなかったようです。当時はさらに1.5mほど深かったそうですが、このようにある程度幅を持たせるために掘底は平坦、すなわち箱堀だったということです。
西矢倉台跡
西矢倉台へ向かう通路・西矢倉台跡
西矢倉台跡から 遠くまで見渡せてまさに見張り台としての機能が十分
馬場下通路
物見台下土橋から竪堀までの間に石敷きの通路が発見されたということで、このように復元されています。
土橋の先は写真のように左右の石垣がせり出した部分があり、解説にもなかったですが、門の跡のようにも思えます。
土橋の先にも石畳は続いていて、本丸へ至る竪堀にかかる木橋(左)と、竪堀へ降りる階段(右)に分岐しています。木橋も復元されていて、当時の様子がよく分かるつくりになっています。
木橋の先は、礎石建物および掘立柱建物の跡が発見されて、そこで行き止まりになっています。先に進むには左の階段を上り、物見台と馬場曲輪をつなぐ道へ合流することになります。
物見台
自然の地形に沿って等脚台形の形に造られており、基壇中央からは柱穴の跡が4本発見されました。掘立柱建物の物見台があったということでしょう。そこからは釘や火縄銃の弾丸も発見されたということです。この物見台からは金山城の周囲がよく見渡せるため、天承二年に上杉謙信が侵攻してきた際は、物見台から資格になる位置に陣を構えたということです。 この跡地は、現在も展望台が設置されているため、当時と同じように周囲を見渡すことができます。見晴らしのいい場所でした。
物見台から
物見台から馬場曲輪までの道
馬場通路といいます。北側は72m に渡って幅約1.2mの石塁が発掘されたとのことで石塁が復元されています。
馬場曲輪が見えてきました。やっと、お城の中枢部分にやってきました。ここまででさえ盛りだくさん。金山城おそるべし。日本100名城にふさわしい山城です。
馬場曲輪
馬場曲輪全図(案内板から)
金山城の中枢部分に至る直前にある曲輪。発掘調査では岩盤をくりぬいた柱穴が240個も見つかっており、多くの建て替えが行なわれた建物が建っていたということが分かったそうです。現在は、その柱穴を利用して東屋が建っていました。
大堀切
馬場曲輪の先は深い堀切になっています。発掘調査によると長さ役46m 掘り幅約15m 深さ約15m と大規模につくられています。さらに掘底にも石積みの防御施設が発掘されるなど、場内最大の堀切で重要な位置にあったことが分かります。 現在も堀切の跡は確認できますが、長年の風雨のため、その深さはさほどでもありません。
大手虎口手前の復元された「月ノ池」
この先には「日ノ池」もあります。 山城では水が重要になります。籠城では生命線です。日ノ池とともに重要な水源となっていたのは間違いありません。
大手虎口
大手虎口からの図
この先が金山城の中枢部分になります。 このように復元された石垣が広がり、見ごたえ十分です。
大手虎口
写真左側(北側)に手前から三ノ丸、二ノ丸、本丸と曲輪が広がり、右側には南曲輪そして正面には日ノ池と御台所曲輪があります。いずれにせよ、まっすぐ進んだ先は、城壁が立ちはだかり、攻め手を分散させどちらを進めばよいか迷わせるつくりになっています。
北城(天主曲輪)
この階段の先は北城(天主曲輪)という詰めの曲輪があります。最も高所に位置しています。
上った先には、「新田神社」なる神社がありました。 金山城の城主に、南北朝時代に活躍し鎌倉幕府を滅亡させた立役者である新田義貞の名も連なっています。
金山城は関東屈指の山城といってよい威容を誇っていました。100名城の名にもふさわしいかと思います。東日本は西日本と比べて大きな城が少ないイメージでしたが、山城の中ではなかなかのもの。
案内板も分かりやすく駐車場も完備。城散策には手軽かつ勉強になりそうなお城といえそうです。
ギャラリー
( 2011年(平成23年)8月7日 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 群馬県太田市金山町40-98・長手町・東金井町 |
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交通 | 東武伊勢崎線太田駅から徒歩約50分 |
URL | 太田市|史跡金山城跡 - 太田市役所 |
別名 | 新田金山城・太田金山城 |
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城郭構造 | 連郭式山城 |
天守 | なし |
築城主 | 岩松家純 |
築城年 | 文明元年(1469) |
主な改修者 | 後北条氏 |
主な城主 | 岩松氏、由良氏、高山定重、宇津木氏久 |
文化財指定等 | 日本100名城(17番) 国指定史跡 関東七名城 |