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最終更新日: 2018-11-04

首里城 Shuri Castle

☆ ☆ ☆ 琉球王国の王宮、世界遺産に認定

三山時代から中山の城としてあったことが確認されていますが、本格的に現在のような規模になったのは、三山を統一した中山王尚巴志の時に琉球王国の王城になってからです。沖縄戦の時は、総司令部がおかれたこともあって城内の建物はことごとく焼失してしまいました。現存する建物はなく、すべて再建されたものです。

[ 守礼門 ]

二千円札の絵にも描かれている建物です。正殿に並ぶ首里城の代表的な建物です。もともとは「待賢」、次いで「首里」の扁額が掲げられていたことから「待賢門」「首里門」と呼ばれていたそうです。構造は三間重層入母屋造本瓦葺です。第二次世界大戦末期の沖縄戦で破壊されましたが、昭和33年(1928)に復元されました。

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address (首里城公園管理センター)
沖縄県那覇市首里金城町1-2
交通

「ゆいレール(モノレール)」で終点「首里駅」下車、徒歩15分

公式サイト Official Site

首里城 - 国営沖縄記念公園
http://oki-park.jp/shurijo/

別名 百浦添、御百浦添、御城(ウグシク)
城郭構造 山城
天守

・なし

築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 尚把志
主な城主

尚氏

文化財指定等

日本100名城(100番)
国指定史跡
世界文化遺産 「琉球王国のグスク関連遺産群」

撮影日
2012-12-26
2010-12-29


[ 守礼門 扁額]

尚永王(在位1573~1588)の時に「守禮之邦」の扁額がつくられ、冊封使の滞在中にだけ掲げられていましたが、尚質王(在位1648~1668)から常時掲げられるようになり、「守礼門」と呼ばれるようになりました。高さは7.05m、両端柱間は7.94mあります。

 

[ 国王頌徳碑 ]

琉球王国時代の嘉靖22年(1543)に建立された碑です。但し、現存するものは戦後になってから復元されたものです。当時の王、尚清が「首里城から弁ヶ嶽への道を石畳にし、周辺に松の木を植えた・・・」なとどいう内容です。表は平仮名文、裏は漢文で刻まれています。

 

[ 城壁 ]

沖縄のグスクに特徴的な曲線的な石垣です。積み直された石垣ですが、往時のすごさが垣間見られます。

 

[ 左右で違った積み方 ]

向かって左が「亀甲積み」、右が「布積み」です。左側はよく見るとすべて(ほとんど?)が六角形です。不等辺六角形を上手に組み合わせて隙間なく積んでいます。

 

[ 積み直された石垣 ]

新旧の入り混じる石垣。復元された石垣には歴史を感じさせませんが、往時の威容を偲ぶにはいいと思います。

 

 

[ 首里杜館 ]

「すいむかん」と読みます。首里城公園のインフォメーションセンターです。レストランやショップなどがあるほか、往時の首里城の模型などを展示しています。

 

[ 歓会門 ]

首里城の城郭内に入る第一の正門です。いわゆる大手門と同じ位置づけといっていいでしょう。中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門」ともいいます。「あまへ」とは、沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており、「歓会」はその漢訳です。1500年前後に創建。昭和20年(1945)の沖縄戦で焼失し、昭和49年(1974)に復元されました。

 

[ 中山第一の碑 ]

龍樋の周辺に設置されている7つの石碑を「冊封七碑」といいますが、これはそのうちのひとつです。「泉の水量は琉球第一である」という意味との事。

 

[ 龍の湧水 ]

王宮の飲料水として使われていた水です。湧き出し口にある龍の彫刻は、1523年に中国からもたらされたものが現存しています。

 

[ 瑞泉門 ]

大手門である「歓会門」の次にある大きな門です。門手前に「龍の湧水(龍樋)」があるので、それにちなんで、「めでたい泉」という意味の「瑞泉」というながつけられました。別名は「ひかわ御門(うじょう)」といいます。「ひ」とは「樋」のことで、「かわ」とは「泉」のことです。1470年ころに創建され、沖縄戦で焼失。平成4年(1992)に復元されました。

 

[ 漏刻門 ]

首里城第三の門です。「漏刻」とは中国語で「水時計」という意味です。別名「かごせ御門(うじょう)」。どんなに身分が高い人でも、国王に敬意を表してここからはかごを降りたということからそのように呼ばれています。実際に、門の上にある櫓には水時計があり、時を告げる太鼓を打ち鳴らしていたということです。

 

[ 日影台 ]

こちらは日時計です。往時からこの場所におかれています。正午およびその前後の時刻はこの日時計で時刻を測り、漏刻で詳しい時刻を測ったということです。沖縄戦で破壊されたものを、平成12年(2000)に復元しました。

 

 

[ 供屋 ]

「万国津梁の鐘」を設置する建物です。日影台の脇にあります。

 

 

[ 万国津梁の鐘 ]

もともとは正殿の前にかけられていた銅製の鐘です。万国津梁とは「世界のかけ橋」という意味です。「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって、栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれています。なお、この鐘はレプリカで、オリジナルは沖縄県立博物館に所蔵されています。

 

[ 広福門 ]

「福をいき渡らせる」という意味を持つ門です。この建物は正面に向かって左側が、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座」、右側が寺社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっています。この役所建築と門とを組み合わせた建物です。創建年は不明。明治末期頃に撤去され、平成4年(1992)に復元されました。

 

[ 系図座・用物座 ]

現在では休憩所と情報案内所になっています。元々、「系図座」とは士族の家系図を管理していた役所で、「用物座」とは城内で使用する物品、資材等の管理を行っていた役所だということです。創建年は不明。明治期に撤去され、平成12年(2000)に復元されました。

 

[ 京の内入口 ]

「けおのうち」と読みます。「霊力のある聖域」という意味をもちます。首里城の中でも最も神聖視されていたところで、神女たちによって祭祀が行われていました。首里城発祥の地ともいわれています。

 

[ 木曳門 ]

首里城の修復工事の時に私財の搬入口として使用された門です。普段は石積みによって封鎖されていました。

 

[ 西のアザナ1 ]

「いりのアザナ」と読みます。城郭の西端に築かれた物見台です。別名を「島添アザナ」ともいいます。かつてはここに旗が立ち、また鐘楼が建っていて、鐘を打って時刻を知らせていました。

 

 

[ 西のアザナ2 ]

標高約131mの高さにあり、那覇市街や那覇港、慶良間列島を望むことができます。

 

 

[ 首里森御嶽 ]

「下之御庭」(しちゃぬうなー)とよばれる広場の中央にあります。正殿前で行われるさまざまな儀式の控えの場でした。ここ「首里森御嶽」(すいむいいうたき)は、城内で最も重要な拝所のひとつでした。石積み内の植物はガジュマルやクロツグです。平成9年(1997)に復元されました。

 

 

[ 奉神門 ]

「下之御庭」と正殿前の広場(御庭・うなー)を隔てる門です。この先が正殿などをはじめとした首里城の中枢部、さながら他のお城でいえば本丸に相当するところになります。「奉神」とは「神をうやまう」という意味です。中央は国王や中国からの冊封使など身分の高い人だけが通れるようになっていました。現在では、ここから先が有料区間になります。別名を「君誇御門(きみほこりうじょう)」といいます。

 

・・・ 続きます!

 

2018/10/25 現在

 

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