富山城 Toyama Castle
天文12年(1543)、越中守護代神保氏が重臣水越勝重に命じて築城させたといわれています。天正9年(1581)に佐々成政が入城して越中一国を治めましたが秀吉に敗れました。
その後は、前田利家の持ち城となりました。寛永16年(1639)に加賀藩3代藩主の前田利常の次男、前田利次が10万石を分与されて富山藩主となり、以後前田家13代の後、明治維新を迎えました。
現在、写真に見られる模擬天守閣は昭和29年(1954)の富山産業大博覧会の時に、旧鉄御門の石垣上に建設されたもので、現在は郷土博物館として利用されています。
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 〒930-0081 富山県富山市本丸1−62 |
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交通 | JR・あいの風とやま鉄道「富山駅」南口より徒歩10分 |
公式サイト Official Site | 富山市郷土博物館・富山市佐藤記念美術館公式ホームページ |
別名 | 安住城、浮城 |
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城郭構造 | 梯郭式平城 |
天守 | ・不明 ・複合連結式望楼型3重4階(1954年RC造・模擬天守) |
築城主 | 水越勝重(神保長職) 同一人物か主従関係かは諸説あり |
築城年 | 天文12年(1634) |
主な改修者 | 佐々成政 |
主な城主 | 佐々氏、前田氏ほか |
文化財指定等 | 続日本100名城(134番) |
撮影日
2002-08-08
[ 新旧比較図 ]
新旧の比較図です。当時とまったく違うことが分かります。本丸があったところを中心に富山城跡公園が広がっています。現在の県庁がある辺りはかつては神通川が流れていたことが分かります。
[ お堀 ]
明治維新後は、富山城の建物は徐々に解体され、堀も埋め立てられていきました。また、残った建物も再三の大火や富山大空襲によって失われてしまいました。この堀は戦後のものです。
[ 佐藤記念美術館 ]
この櫓風の建物は、富山県砺波市出身の実業家、故佐藤助九郎氏が中心となり、昭和36年(1961)に開館した佐藤美術館です。その後、昭和38年(1963)に富山美術館、平成10年(1998)に富山佐藤美術館と改称されました。館内には展示室のほかに、茶人でもあった佐藤助九郎氏の茶室「助庵」「柳汀庵」と総桧造りの書院座敷が佐藤家より移築され、現在、佐藤記念美術館として運営されています。
[ 前田正甫の像 ]
二代目藩主、前田正甫公は越中売薬の祖として有名です。製薬で有名な富山、越中富山の薬売りの草分けといってよいでしょう。元禄3年(1690)、江戸城内で正甫公の取り出した薬で三春(福島県)藩主、秋田河内守の腹痛を治したことがきっかけで、薬の販売を諸国の大名が求めたことから始まりました。この時の薬を反魂丹といいます。その製薬は松井屋源右衛門、行商は八重崎屋源六なる人物が行いました。
さらさら越え
富山城にいた佐々成政は、成り上がり者の秀吉が嫌いでした。
そんな折、徳川家康が、信長の次男(織田信雄)を担いで秀吉と戦いを始めたのです。世にいう、小牧・長久手の戦いです。家康に呼応した成政でしたが、この戦いは秀吉と信雄の和睦という形で決着がついてしまいました。
こうして秀吉に敵対し続けているのは成政だけとなりました。
成政がいる富山の東には上杉景勝、西には前田利家がおり、挟み撃ちにあっている状況にあります。幸い冬で雪に閉ざされており、前田も上杉も兵を動かすことができませんが、春を迎え、雪解けの季節になればやられてしまうと考えた成政は、両家の所領を避け、冬の立山連峰を越えて(さらさら越え)浜松にいる家康に再度の挙兵を促しにいくことを決意したのです。
訓練を積んだ現在の登山家でも冬の立山連峰を越えることは困難といわれます。にもかかわらず、果敢に挑戦した成政はある意味すごいといえます。しかし、せっかく苦労してたどり着いた浜松でも、家康の心を動かすことはできませんでした。こうして、ついに成政も秀吉に屈します。
後に、肥後一国を与えられますが、肥後は元々一揆が多発していた地域でした。領内で一揆が起きたことを責められ、成政は秀吉に切腹を命じられたのでした。