大阪城 Osaka Castle
[ 登録有形文化財の復興天守は有数の美しさ ]
中世はこの地には石山本願寺という浄土真宗(一向宗)の寺院がありました。その後、織田信長と対立するようになり、天正8年(1580)に滅ぼされてしまいました。その3年後信長の後継者となった羽柴筑前守秀吉(豊臣秀吉)が本願寺跡に入城し、ここに大阪城(当時は大坂城)を築きました。
天正8年(1580)に石山本願寺は織田信長によって滅ぼされました。大阪城はその跡地に、信長の後を継いで天下統一を成し遂げた豊臣(羽柴)秀吉によって建てられました。この天守閣は大坂夏の陣の戦火によって焼失しましたが、現在のものは秀吉時代の天守閣を想定して再建されました。
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城1−1 |
---|---|
交通 | 北西側 京橋口 西側 大手門 南側 大阪城パークセンター経由 東側 青屋門 |
公式サイト Official Site |
別名 | 錦城、金城 |
---|---|
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守 | ・複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階(豊臣期・1585年築) ・独立式層塔型5重5階地下1階(徳川期・1626年再) ・独立式望楼型5重8階(1931年SRC造復興) |
築城主 | 豊臣秀吉 |
築城年 | 天正11年(1583) |
主な改修者 | 徳川秀忠 |
主な城主 | 豊臣氏(豊臣秀吉・豊臣秀頼)、奥平氏、徳川氏 |
文化財指定等 | 日本100名城(54番) |
撮影日
2016-04-03
2015-12-08
2009-12-24
2007-11-18
2004-08-15
2001-08-11
[ 極楽橋と天守 ] 2001撮影
当時は観光客も少なめ。ゆったりと見学ができていました。
[ 青屋門 ]
本願寺がこの地にあった頃、この門外周辺は青屋町と呼ばれていたので、この名がついたといわれています。大阪城においては、非常口の役割を果たしていたそうです。昭和20年(1945)の空襲で焼失しましたが、戦後再建されました。創建は、江戸時代元和6年(1620)です。
[ 天守閣 ]
慶長20年(1616)、大阪夏の陣で秀吉が築城した天守閣は焼失しました。その後、寛永6年(1629)に一度は再建されましたが、これもまもなく落雷のため焼失してしまいました。その後は長く天守閣は存在しませんでしたが、昭和6年(1931)に大阪市民の寄付金によって鉄筋コンクリート造りで再建され現在に至っています。外観は、黒田長政が大坂夏の陣の戦勝を記念して描かせた「大坂夏の陣図屏風」(重文)の絵をモデルにしています。写真のように最上階には黒地に金の模様が描かれていて、図屏風に描かれた秀吉時代の天守閣を再現しているのが分かります。
[ 天守閣2 ]
総高は55メートル。平成9年(1997)の大改修によって外壁の塗り替え等の修復のほか、エレベーターの延長、耐震工事などを行いました。再建時から内部は8階建ての歴史博物館として活用されています
[ 天守閣3 ]
木立の中に浮かぶように見える天守閣。玉造口そばから撮影。きれいです。
[ 玉造門跡 ]
現在の玉造門は創建時の姿ではありません。明治元年(1868)の火災で周辺の建造物が焼失した後、戦時中、陸軍によって玉造門そのものも解体されたからです。この門は、大阪城の搦手門(裏門)のひとつでした。古代、曲玉などの装飾品をつくっていた職業集団(玉造部(たまつくりべ))の集落がこの周辺のあったことにその名が由来しているとのことです。
[ 一番櫓 ]
かつては一番から七番まで二の丸南側には隅櫓があったそうです。二番櫓と三番櫓は戦災で焼失。残りの櫓も現在までに失われ、この一番櫓と六番櫓が現存し、重要文化財の指定を受けています。一番櫓は二層二階で寛永5年(1628)の創建です。玉造口周辺を堀を隔ててうかがえる場所にあります。二番櫓とともに玉造口の抑えでした。
[ 六番櫓 ]
一番櫓とほとんど同じ形をしています。櫓の構造も二層二階で一番櫓と変わりありません。創建も同じ寛永5年(1628)です。江戸時代後期(天保年間)に修理がなされています。重要文化財。
[ 乾櫓 ]
乾櫓(いぬいやぐら)の乾とは「戌(いぬ)」の方角と「亥(い)」の方角との間、すなわち北西に面している櫓のことです。この櫓は茶人、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の総指揮で元和6年(1620)に建造されたといわれていて、千貫櫓とともに大阪城内で現存する最古の建造物との事です。小堀遠州は、豊臣氏・徳川氏に仕えた茶人ですが、造園・建築家としても有名です。とりわけ、この乾櫓は櫓にしては珍しくL字型をしていて、外観も「三正面の櫓」といわれているように、特徴的なのが分かります。重要文化財。
[ 千貫櫓 ]
石山本願寺の跡地に建てられた大阪城ですが、織田信長の石山本願寺攻撃の際、攻め手を悩ませた櫓があったところにあります。その時「あの櫓を落とせれば銭千貫文与えても惜しくはない」と言われたことからこの名が付いています。昭和36年(1961)の解体修理の際、土台の木材の墨書によって元和6年(1620)の建造ということが分かりました。また、この櫓は、大手口のすぐそばにあって、脇にひかえる多聞櫓などとともに、大手口を守る重要な櫓の一つでした。重要文化財。
[ 大手口櫓群 ]
千貫櫓(左)と多聞櫓(細長い建物)です。手前には大阪城の正門にあたる大手門が見えます。いずれも重要文化財。
[ 大手門 ]
大阪城の正門にあたります。高麗門づくりです。入口は他に玉造門、京橋門および青屋門があります。この大手門の創建も元和6年(1620)でしたが、天明3年(1783)に落雷によって焼失し、嘉永元年(1848)に補修・再建されました。重要文化財。
[ 豊国神社 ]
大阪城内にあります。豊臣秀吉を祀る神社です。訪れる人は意外に少ないです。
[ 桜門 ]
本丸への入口。かつてこの付近に桜並木があったので桜門と呼ばれています。明治元年(1868)に焼失しましたが、明治20年(1887)に再築されました。重要文化財。
[ 蛸石 ]
この石は蛸石と呼ばれ、大坂城内で最も巨大な石です。36畳敷(約60㎡)、推定重量が130tです。
[ 旧大阪市立博物館 ]
本丸の一角にあります。朝ドラなどのロケ地にもなりました。
[ 金蔵 ]
金蔵は江戸時代、金貨・銀貨などのお金を保管した蔵です。嘉永3年(1626)創建の後、天保14年(1843)に現在の建物に改築されました。床は石敷き、入口は三重構造と盗難防止に優れた構造となっています。重要文化財。
[ 秀頼・淀君ら自刃の地 ]
慶長21年(1615)の大坂夏の陣で徳川方に攻められ、城中で自害した淀君と、その子豊臣秀頼の自刃の地です。石碑が建っていますが、訪れる人は少なく、見過ごしそうな場所にあります。淀君は、父は浅井長政、母は織田信長の妹、お市の方です。長政とお市との間には他に2人の娘があり「浅井三姉妹」と呼ばれていました。長女が茶々(淀君)で後に豊臣秀吉の側室となります。次女のは京極高次に嫁ぎました。三女はお江といって、2代将軍徳川秀忠に嫁ぎました。3代将軍家光の生母でもあります。
[ 天守閣4 ]
大阪城天守閣の最上階の外観には竜虎の模様がみられます。大坂夏の陣図屏風にもあり、豊臣時代の天守閣の再現ということが分かります。