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三之丸外堀 |
大手門 |
番所跡休憩所 |
三之丸と城下の間に設けられた堀で、清水門から塩屋門西まで存在していました。廃城後は埋め立てられ、田畑となっていましたが、順次復元が進み、大手門前にもこのような堀があります。大手門へはこの堀をまたぐ橋を渡ってから入るようになっています。さほど大きくはありません。 |
高麗門形式の大手門です。昭和30年(1955)に大手隅櫓とともに復元されました。桝形になっており、くぐった先にもうひとつ櫓門がありました。大手門桝形は、平成9年(1996)に復元されました。 |
大手門を警護する役人の詰所だった建物です。平成15年(2003)に復元、整備され、休憩所となっています。大手門に近い場所にあります。 |
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近藤源八宅跡長屋門1(部分) |
近藤源八宅跡長屋門2(部分) |
大石邸長屋門入口 |
平成10年(1998)に赤穂市指定文化財に指定されました。「源八長屋」の愛称で親しまれています。木造平屋建て、入母屋造、本瓦葺の長屋門形式の建物です。桁行きは、大石内蔵助宅跡長屋門をはるかに凌ぐ21間半(約42.3m)もあったとされています。そのうち現存するのは写真にある6間半の部分です。 |
写真は現存している部分を通りと反対側から撮影したものです。写真右端は厠で、中央の縁側の奥は八帖の畳の間になっています。近藤家はもともと甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲の門人だった近藤三郎左衛門正純が、刃傷事件をおこした浅野内匠頭長矩の祖父、長直の代から仕えはじめました。近藤源八は彼の養子で、千石番頭の重職にありました。また、彼の妻は大石内蔵助の叔母にあたります。 |
忠臣蔵の主役の大石内蔵助良雄の屋敷前にある長屋門です。近藤源八宅跡長屋門とともに、赤穂城に残る江戸時代から現存する数少ない建物のひとつです。昭和54年(1979)には解体修理も行われました。 |
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大石神社 |
大石神社参道 |
大石邸庭園 |
大正元年(1912)の創立。歴代の赤穂藩主(浅野家三代・森家七代)や赤穂義士、萱野三平をまつる神社です。境内には義士宝物館があり、義士ゆかりの資料が展示されています。
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大石神社は赤穂城の三の丸の一部につくられています。参道の両脇には赤穂四十七士の像が並んでいます。 |
大石邸の庭は池泉も造られた大きなものです。刃傷事件を知らせた早駕籠が到着したとされている長屋門の裏手にあたります。 |
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大石内蔵助お手植えの松 |
大石邸長屋門裏手 |
早駕籠 |
この松は、大石邸庭園にあるもので、大石内蔵助が自ら植えたといわれています。 |
赤穂城に江戸時代から残っている建物のひとつです。浅野内匠頭長矩が起こした江戸城松の廊下での刃傷事件を知らせる早駕籠が叩いた門です。内蔵助がいた頃の本邸は江戸時代後期に焼失しており、実際にこの門長屋に住んでいたわけではないとの事です。 |
主君浅野内匠頭の刃傷事件を知らせる第一の使者は、義士の早水藤左衛門と萱野三平の二名でもたらされました。この一報を知らせる早駕籠は、江戸からの百七十里(680km)をわずか四昼夜半で到着したといわれています。早駕籠は、塩屋門から城中に入り、ここ大石邸の門に到着しました。写真は、その早駕籠を復元したものです。 |
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二の丸 |
本丸入口 |
本丸櫓門 |
整備されつつある二の丸庭園。 |
本丸を囲む外堀にかかった中道の先に二の門が見えます。高麗門形式で木造本瓦葺切妻造り、幅4m、高さ6mです。桝形になっており、奥に櫓門形式の一の門が見えます。 |
本丸側からみた本丸櫓門(一の門)です。幅13m、高さ11mで木造本瓦葺入母屋造りです。木材には国産材の欅、杉、檜などを、石材に赤穂産の花崗岩を使用しています。 |
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本丸御殿庭園跡 |
厩口門 |
米蔵(市立歴史博物館) |
間取りを復元表示した表御殿の先には、直線と曲線を巧みに組み合わせた造りになっている大池泉が復元されています。発掘調査によって全体の姿が明らかになりました。それによると、東西38m、南北26m、外周約150mの規模で、中島、入江、岬を備え、池底には割石や瓦が敷き詰められていたとのことです。 |
浅野氏の時代は厩口門といわれていましたが、森氏の頃は、台所門といわれていました(森氏の頃は二の丸東仕切門を厩口門といっていました)。廃城後に取り壊されてしまい、赤穂高校の通用口として使用されていましたが、平成8年(1996)の発掘調査で建坪5坪の高麗門だったことが判明し、復元されました。 |
川口門ともよばれた清水門の先に、復元された米蔵があります。この清水門は、大石内蔵助が赤穂城引き渡しの際に最後に城を後にした門といわれています。米蔵は外観のみ復元されており、中は赤穂市の市立歴史博物館になっています。 |