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潮見櫓 |
名島門 |
旧母里太兵衛長屋門 |
三ノ丸御鷹屋敷跡 |
福岡城の築城者は、関ヶ原の戦いで東軍に属して活躍した功によってこの地を領した黒田長政です。長政は、築城にあたり、当時47棟もの櫓を築きましたが、そのうち西北隅にあったものが、この潮見櫓です。大正の初めに、黒田家別邸に移築された後、昭和31年(1956)にこの地に復元されました。
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福岡市指定文化財。この門はもともと小早川隆景が築いた名島城にあった城門です。黒田長政が名島城に入城し、居城を福岡城に移すときに、家臣の林掃部に下げ渡され、邸宅の門として使用されていました。明治の中ごろに、長崎に移築されそうになったものを当時の代議士が買い、自宅の門とした後、この地に移築されました。
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福岡県指定文化財。天神二丁目にあった母里太兵衛の屋敷から昭和40年(1965)にこの地に移築されました。母里太兵衛(もりたへい)は黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲みとった豪傑として知られています。黒田節「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取るほどに 飲むならば これぞ真の黒田武士」
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この三ノ丸にあった御鷹屋敷は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛孝高の隠居地です。現在は、「ボタン・シャクヤク園」になっています。
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黒田如水公隠居地 |
東御門跡 |
二ノ丸 |
南丸多聞櫓1 |
秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛孝高は、長子長政に家督を譲った後で、如水円清と号して福岡城内のこの地に隠居しました。
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大手門から二ノ丸に入るところにあった主要な門でした。この門の東側石垣上には、二層の炭櫓(高矢倉)、西側には革櫓が設けられていました。 |
東西に長い梯郭式の平山城だった福岡城で、三ノ丸と本丸をつなぐ位置にあったのがこの二ノ丸です。 |
南丸は二ノ丸南郭ともよばれ、江戸時代から現存している数少ない多聞櫓があります。写真は南東隅にある櫓です。
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南丸多聞櫓2 |
南丸多聞櫓3 |
本丸之図 |
裏御門跡 |
桁行は三十間あります。建築年代は明らかでなく、近世初期の部材を一部用いていますが、この平櫓は嘉永6年(1853)の建て替えといわれています。多聞櫓は防御のための長塀で、内部は突き抜けていて、平素は倉庫などに使われているのが普通ですが、この多聞櫓は、十六の小部屋が独立しており、中には石落としのみで、城外を見る窓がない部屋もあります。
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二重二階切妻造りの隅櫓です。福岡城の建物の特徴とされる建物の軒先を支えている方杖と端隠し板で垂木口を隠す工法が見られます。 |
裏御門跡近くにある本丸の表示板です。藩主の住まいである御殿があり、また大中小の三つの天守台が現存しています。但し、天守閣は建てられなかったといわれています。 |
現在の本丸跡へはここをのぼっていきます。左の石垣上には太鼓櫓があったとされています。 |
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御時櫓跡 |
祈念櫓 |
小天守入口 |
鉄御門跡 |
本丸の北西隅にあった櫓の跡です。時を告げる鐘がありました。 |
本丸の北東隅に鬼門封じのために建てられたものです。現在の建物は万延元年(1860)につくられました。大正7年(1918)に北九州市八幡西区の大正寺境内の観音堂として移築されましたが、その後再び福岡城内の現在地に昭和58年(1983)に移築されました。外観などは、大正寺への移築の際に大幅な改変をされたようで、もともとは二層目の窓が花頭窓だったことが分かっています。 |
福岡城の本丸、中枢部分に大中小の三つの天守台があります。現在は石垣の遺構だけですが、それぞれの天守にのぼることができます。
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天守へはこの門をくぐります。窮屈で、守るに固い厳重な門だったことでしょう。
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