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追手門からの天守閣 |
山内一豊公之像 |
山内容堂公誕生之地 |
追手門正面 |
追手門と天守を同時に見ることができるのはここだけといわれています。山内一豊が築城したお城です。天守閣は江戸時代から現存しており、国の重要文化財に指定されています。
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尾張国岩倉城主、織田伊勢守信安の家老、山内盛豊の子です。天文14年(1545)に岩倉城が落城した際に父が戦死し、一族とともに流浪しましたが、後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、武功を上げていき、最終的には土佐一国の主になりました。慶長10年(1605)9月20日に没しました。61歳。
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幕末の土佐藩主です。名を豊信といいます。吉田東洋に藩政改革を命じ、土佐藩の建て直しを行いました。当初は土佐勤皇党を弾圧するなど保守的な考えを持っていましたが、最後は後藤象二郎の策をいれ、大政奉還を建白しました。
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追手門は高知城の正門に当たります。重層で入母屋造、欅を用いた主柱や扉が特徴的です。他の城にも見られるような枡形になっており、門の外からは内部を見通せない構造になっています。この門から東に伸びる追手筋とよばれる通りは、高知市内のメインストリートで元禄3年(1690)から続く日曜市が開催されます。
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板垣退助先生像 |
板垣死すとも |
山内一豊の妻の銅像 |
山内一豊・千代 |
天保3年(1837)4月17日生まれ。旧姓は乾、無形。戊辰戦争の時に板垣と名乗り、武功を上げました。維新後は新政府の参議になりましたが、一旦下野しました。その後、明治7年(1874)に民選議院設立の建白書を提出するとともに、高知で立志社をつくって自由民権運動を始めました。大正8年(1919)7月16日に83歳で没しました。
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「板垣死すとも自由は死せず」と書いてあります。明治14年(1881)10月、自由党総理に推され、翌春の4月6日遊説していた岐阜中教院で暴漢に刺されました。この時に生まれたのが先の名文句です。板垣は一命を取り留めました。 |
弘治3年(1557)生まれ。名を千代といいますが、これを裏づける確かな資料はないとの事です。出身地についても定かではなく、近江国の領主だった浅井家の家臣、若宮友興の娘とも、美濃国八幡城主、遠藤氏の娘ともいわれています。17歳くらいの頃に山内一豊と結婚した後は内助の功を発揮し、夫の土佐一国の領主への道を開きました。 |
土佐24万石の初代藩主、山内一豊とその妻の千代です。2006年の大河ドラマ「功名が辻」の主人公です。千代は夫をよく盛り立てて戦国の乱世を生き抜き、近江長浜城主、遠江掛川城主を経て、関が原の戦いで徳川方に与したことで土佐一国を与えられるまで、内助の功で支え続けました。
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石樋 |
楠正興尚徳の碑 |
鉄門跡 |
詰門 |
石樋は、排水が直接石垣に当たらないように工夫された設備です。雨の多い高知ならではのものです。城内にはこのような石樋が全部で16ヶ所確認されていますが、ここにあるものが一番大きいとの事です。
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幕末から明治にかけての医師です。先祖はあの楠正成です。正成の曾孫の正盛を祖として医を業としました。15代藩主、山内容堂に迎えられて侍医となりました。明治元年(1868)に容堂公が大病を患った際に献身的に治療にあたり、治癒させたので高い信頼を得られることになりました。後に追手筋に楠病院を開業しました。 |
この場所には入母屋造二階建ての門がありました。二の丸から本丸へと通じる入り口にあたる重要な位置にあるため、厳重なつくりとなっていて、門扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので鉄門といわれていました。この門の内側には番所があって、弓・鉄砲をもった番人と足軽が詰めていました。 |
本丸と二の丸の間にある門です。二階部分が二の丸から本丸へと通じる通路となっており、橋廊下という旧名があります。東の出入り口は右寄り、西の出入り口は中央につけられていて筋違いになって防衛上の配慮がなされています。他にも隠し銃眼などがあり、厳重な門でしたが、実はこの門を突破しても本丸へと通じることはできないという構造になっています。本丸へは手前の階段を折れて進まなければなりませんが、登ってくると正面にこの門が見えるため、錯覚で自然とこちらの方へ引きつけられる仕組みになっていました。 |
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石落とし |
忍び返し |
二の丸 |
懐徳館入口 |
石垣の下や登ってくる敵に石や熱湯を落としたりするためのものです。全国のお城に共通して見られる設備です。 |
天守閣がそびえる石垣には石垣よりひときわ厳重に防備をなしたこのような設備があります。敵が運よく登れたとしても鉄のトゲで阻まれるようになっており、忍び返しと呼ばれています。 |
明治6年(1873)の公園化にともなってすべての建物が撤去されました。今はこのように単なる広場となっていますが、御殿の上段の間の正面に位置していた場所に、現在でも築山がみられます。この場所には、三階建ての乾櫓をはじめ8棟の櫓のほか、政務をとる表御殿と藩主の日常生活の場であった奥御殿が建てられていました。
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二の丸から本丸へとつながるところです。橋廊下といわれていました。本丸へはこの建物をくぐらなければ入ることができませんでした。実はこの建物は詰門の上部にあたります。懐徳館入口と書いてありますが、懐徳館とは本丸御殿のことです。
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