シリーズ > 歴史人物 > 068 真田幸村

2018-12-09 2018-12-14

真田幸村(さなだ ゆきむら)

Yukimura SANADA:(1567? - 1615)日本一のつわもの

真田幸村:信繁とも。武田氏に仕えていた信濃国の国人、真田昌幸の子。

【基本データ】

名前 真田幸村( さなだ ゆきむら )
生没年

永禄10年 (又は元亀元年) - 慶長20年 5月7日

( 1567?70? - June.3,1615 )

改名

幼名:弁丸

別名

通称:信繁、源次郎(源二郎)、左衛門佐

生誕地

 

死没地

安居神社

(現:大阪市天王寺区)

戒名  
官位 従五位下、左衛門佐
墓所 妙心寺塔頭養源院(京都市)ほか

家族

(主な人物)

父:真田昌幸

母:山手殿(寒松院)

兄弟:(兄)真田信之(松代藩主)

妻:(正室)竹林院(大谷吉継娘)

子:大助(幸昌)

【生涯】

(1)誕生〜九度山配流

永禄10年(1567)

元亀元年(1570)

(諸説あるため、年齢表示を行わない)

信濃国小県郡の国衆、真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として誕生

天正10年(1582)

帰属していた武田氏が滅亡したため、織田信長配下の滝川一益に帰順。しかし、直後に本能寺の変がおこると、越後の上杉に帰属する。

天正13年(1585)

第一次上田合戦

北条と徳川の和睦のため、上田城を北条に差し出せという徳川の命令に従わなかったため、徳川軍が侵攻。しかし、真田昌幸、信繁(幸村)らが撃退。

文禄 3年(1594)

従五位下左衛門佐に叙任

羽柴秀吉に服属していたため、人質として大坂(大阪)にいたが、そこで大谷吉継の娘、竹林院を娶っていた。その後、秀吉の馬廻衆に加えられていた。

慶長 5年(1600)

犬伏の別れ・第二次上田合戦・高野山配流

五大老の徳川家康が上杉景勝討伐のため会津へ遠征。信繁(幸村)・信之・昌幸も家康に従軍。しかし、その間に石田三成が挙兵。東軍:徳川家康、西軍:石田三成という天下分け目の構図が完成。

 

【犬伏の別れ】

真田家の生き残りをかけ、東軍と西軍のどちらにつくか父の昌幸と兄の信之の三者で協議。その結果、兄の信之は東軍に、父の昌幸と信繁(幸村)は西軍につくことに決定した。

 

【第二次上田合戦】

西軍についた昌幸、信繁(幸村)は上田城に籠城し、西進してきた徳川秀忠軍を迎え撃った。結局、この戦いによって秀忠は関ヶ原の戦いに遅参するはめになった。

 

【高野山配流】

秀忠軍の足止めには成功したが、西軍は関ヶ原の戦いで敗れ、西軍に与していた昌幸・信繁(幸村)は領地没収のうえ、高野山への配流となった。

慶長16年(1611)

父、昌幸死す

九度山(高野山の麓)に蟄居中、父の昌幸が死去。翌年、信繁は出家して好白と名乗った。

慶長19年(1614)

九度山脱出、大阪城入城

方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂冬の陣が勃発。信繁(幸村)は息子の大助(幸昌)とともに九度山を脱出して大阪城へ入る。

(2)大坂の陣

(2)1.冬の陣

慶長19年(1614)

真田丸

信繁(幸村)(以下、幸村)は大坂城への籠城に反対するが受け入れられなかったため、城の南に出城(真田丸)を築いて敵軍を迎え撃つことにした。

 

12月4日(1615.01.03)

真田丸に攻撃を仕掛けた前田利常隊が真田の鉄砲隊によって散々に打ち負かされる。

 

12月20日

和議が成立。大坂冬の陣が集結。豊臣方は勝てる可能性のある戦と見ていたが、本丸への砲撃によって淀殿の侍女8人が死亡したことがきっかけで、和議とあいなったようである。

(2)2.夏の陣

慶長20年(1615)

交渉決裂

家康は秀頼が大坂城を明け渡すことを命じていたが、交渉にあたっていた大野治長が豊臣家の異封を拒否したこともあり、交渉は決裂。和議の時に埋め立てた堀を掘り返したり、場内の金銀を浪人衆に配るなど、再び戦の気配がただよう。

しかし、豊臣方の敗北を予見した浪人たちは、脱走し、多くの兵力が失われた。

 

 

5月6日 道明寺の戦い

真田隊は濃霧のため集合地点に遅れ、猛将の後藤基次(又兵衛)が討ち死にさせてしまう。

先に到着していた毛利勝永は真田幸村の到着を待って攻撃をする手筈だったので、みすみす又兵衛を死なせることになった。(そもそも戦の指揮権は大野治長だったので、指揮命令系統が麻痺していたことも要因の一つであろう)

退却のしんがりは幸村が担当し、追撃してきた伊達政宗隊を撃退した。

「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」という幸村の台詞はこの時生まれた。

 

 

5月7日 天王寺・岡山の戦い

幸村は、毛利勝永、大野治房、明石全登らと最後の決戦に挑んだ。しかし、衆寡敵せず敗北を覚悟。最後は家康のいる本陣に突撃を試みた。

松平忠直隊を蹴散らし、家康本陣の至近までせまることに成功。家康の馬印も引き倒され、家康は討ち死にを覚悟したという。一時的ではあったもののの、大野、明石、毛利らの突撃も奏功して、徳川軍は総崩れの様相を呈した。

大野治房はこの時、秀頼の出陣を促すべく白に引き返したが、秀頼の馬印を掲げたまま城に引き上げたため、それを見た多くの将兵が敗走したものと勘違いした。

これをきっかけに徳川方が盛り返し、勝敗が決することになったという。

 

幸村の最期

天王寺近くの安居神社で休息を取っていた時、越前松平家の西尾宗次に発見され、討ち取られたという。(この神社は「真田幸村終焉の地」として疲労困憊し、兜を脱いで休息している幸村の姿をした銅像がある)

 

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真田幸村像

1.@長野県上田市

眞田幸村(本名信繁)

「上田城主安房守昌幸二男 豊臣秀吉近侍従五位下左衛門佐任官 関ヶ原合戦は西軍につき籠城東軍を撃破 戦後紀州高野山に配流 大坂の陣おこるや秀頼の招きで入城 冬の陣は城外出丸で奮戦 夏の陣は家康の本陣突入 五月七日戦死 四九歳」碑文による

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