2019-11-11 2019-11-11
板垣 退助(いたがき たいすけ)
Taisuke:(1837.04.17 - 1919.07.16)自由民権運動の創始者
日本で最初の全国政党である自由党を結成し、総裁になりました。翌年、遊説の途中、岐阜中教院で演説した直後、刺客に襲われました。その時に有名な「吾死スルトモ自由ハ死セジ」という言葉が生まれました。一命をとりとめた後も政界で活躍し、内務大臣などを歴任しました。
【基本データ】
名前 | 板垣 退助( いたがき たいすけ ) |
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生没年 | 天保 8年 - 大正 8年7月16日 ( 1837.04.17 - 1919.07.16 ) |
改名 | 乾猪之助→乾退助→板垣退助 |
生誕地 | 土佐国高知城下 (現在の高知県高知市本町2丁目) |
死没地 | 東京 |
戒名 | 邦光院殿賢徳道圓大居士 |
官位 | 従一位、勲一等旭日桐花大綬章、伯爵 |
墓所 | 薊野山(板垣山) (高知県高知市薊野)ほか |
家族 (主な人物) |
父: 乾正成(土佐藩士) 妻:林益之丞政護妹(正妻) 継妻:中山弥平治秀雅次女、板垣鈴、板垣絹子(広尾学園創始者・長崎の郷土史家、荒木周道 妹) 板垣清子 子(五男五女):板垣鉾太郎(長男)ほか |
【生涯】
土佐藩の上級武士の長男として、土佐(現在の高知県高知市本町2丁目)に生まれた。 明治元年1月、迅衝隊を率いて戊辰戦争に参加。総督府参謀を務め、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争に従軍した。
明治4年から新政府の参議となりましたが、2年後には征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、西郷隆盛とともに辞職した。西郷隆盛はその後、西南戦争を起こして敗れたが、板垣は民選議院設立建白書を政府に提出、つづいて高知に立志社をつくり、自由民権運動をはじめた。
その後、日本で最初の全国政党である自由党を結成し、総裁になった。
翌年、遊説の途中、岐阜中教院で演説した直後、刺客に襲われた。その時に有名な「吾死スルトモ自由ハ死セジ」という言葉が生まれた。一命をとりとめた後も政界で活躍し、内務大臣などを歴任した。
64歳で引退後は社会福祉事業などに携わったが、自由民権運動に私財を投じていたため、晩年は決して豊かな暮らしとはいえなかったようである。
82歳没。
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