シリーズ > 歴史人物 > 041 西郷隆盛

2017-12-16 2018-01-16

西郷隆盛(さいごう たかもり)

Takamori SAIGO:(1828 - 1877)幕末維新の英雄

西郷隆盛:維新三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)の一人。二度の流人生活など苦労の末、薩摩藩で頭角を現して倒幕をはたしました。明治維新後は政争に敗れ、西南戦争を起こすが敗れて自刃しました。

【基本データ】

名前 西郷 隆盛( さいごう たかもり )
生没年

文政10年12月 7日 - 明治10年 9月24日

( Jan.23,1828 - Sept.24,1877 )

改名

幼名:小吉

諱:隆永・武雄・隆盛

別名

通称:吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助

変名:西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助

号:南洲

生誕地

薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場

(現:鹿児島県鹿児島市加治屋町)

死没地

「南洲翁終焉之地」の碑あり

現:鹿児島市城山町

戒名 南州寺殿威徳隆盛大居士
官位  
墓所 南洲墓地

家族

(主な人物)

父:西郷吉兵衛隆盛(同姓同名)

母:マサ

兄弟:

(次弟)西郷吉次郎隆廣(北越戦争で戦死)

(三弟)西郷従道

(四弟)西郷小兵衛隆雄、隆武(西南戦争で戦死)

妻:伊集院トシ(須賀)・佐栄志の娘、とま(愛加那)・イト

子:

西郷菊次郎(外交官・元京都市長)

西郷菊子(大山巌の弟の妻)

西郷寅太郎・西郷牛次郎・西郷酉三

親戚:

(従弟)大山巌(陸軍元帥)

【生涯】

(1)誕生から明治維新まで

文政10年(1828)

0歳:12月7日(1828.01.23)

薩摩藩の下級武士、西郷吉兵衛隆盛とマサの長男として誕生

幼少〜少年期

6歳から儒学を習い始め、8歳ころから藩校の造士館に通い始める

11歳頃:同じ郷中の上級武士と喧嘩

この時、右ひじの神経を切ってしまい、剣術で身を立てることを諦め、学問に集中する。

嘉永 3年(1850)

22歳:島津斉彬が藩主に就任

須賀と結婚

嘉永 7年

安政元年(1854)

26歳:須賀と離縁

中小姓に任ぜられて、斉彬の江戸参府に随行する。

安政 5年(1858)

30歳:島津斉彬が急逝

島津斉彬の逝去の際には、殉死しようとするが、清水寺の僧、月照に諭されて思いとどまる。

 

11月16日:月照入水自殺事件

月照という僧は勤王の思想が強く、幕府の大老、井伊直弼による安政の大獄によって幕府から追われる身となる。

これに対し、薩摩藩が一度は薩摩でかくまうものの、最終的には「日向送り」とする。これは実質死刑に値する措置であり、西郷隆盛はともに日向に船で送られる途中、あきらめて月照とともに入水自殺を図った。

入水自殺は未遂に終わるが、月照は死亡。

薩摩藩は月照をかくまった罪に問われることを恐れ、西郷を奄美大島にかくまう。

安政 6年(1859)

31歳:奄美大島にて再婚

龍家(もと田畑家)の一族、佐栄志の娘・とま(愛加那)と再婚、翌年には長子(西郷菊次郎)が誕生

文久 2年(1862)

34歳:赦免〜再び遠流

島津久光とともに上京をすることになったが、ここで西郷は「下関に留まれ」という久光の命令を無視。独断で京都に軍を率いて上京したことから再び、徳之島、沖永良部島へと流罪となる。

文久 4年

元治元年(1864)

36歳:鹿児島へ帰還

薩摩藩はもともと公武合体論をすすめており、それがいきづまってくると尊王思想へと考えを改めていく。そんな折、勤王派として知られていた西郷隆盛が再び赦されて召還されることとなる。大久保一蔵(利通)や小松帯刀らの勧めもあったという。

 

7月19日(1864.08.20):禁門の変

禁門の変(蛤御門の変)では、会津藩とともに御所を守り、西郷の指揮の下、長州藩を完膚なきまでに打ち破った。

西郷は伊地知正治らとともに乾御門で長州勢を撃退した。

 

7月23日(1864.08.24):第一次長州征討の命が下る

幕府は、さらに長州征討(第1次)を企図したが、薩摩藩は、外圧激しい中、長州を滅ぼすのは得策ではないとし、出兵命令を拒否。

西郷は大坂で勝海舟と出会い、長州に対して強硬策をやめて緩和策へと方針を転換したと言われる。

慶応 2年(1866)

38歳

1月21日(1866.03.07):薩長同盟なる

小松帯刀邸で長州藩の桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約。坂本龍馬がその提携書に裏書きをした。

なお、坂本龍馬と妻おりょうの婚礼は、西郷が仲人をした。

 

6月 7日(1866.07.18):第二次長州征討

薩長同盟の盟約を受けて、幕府による第2次長州征討の時に、長州に武器を供給するなどして、幕府軍の勝利に貢献した。

慶応 3年(1867)

39歳

10月14日(1867.11.09):大政奉還

江戸時代が終焉し、明治時代がはじまる

慶応4年

明治元年(1868)

40歳

1月3日(1868.01.27):鳥羽・伏見の戦い

戊辰戦争のはじまりとなったこの戦いで、15000の旧幕府軍に対し、3500の兵力でこれを打ち破る。

4月11日(1868.04.11):江戸城無血開城

東海道を東進、江戸城の総攻撃を前に、勝海舟との会談の末、無血開城を成功させた。

(2)明治維新後

明治 4年(1871)

43歳:留守政府

岩倉使節団の欧米歴訪中、留守政府を預かり、多くの政策を実現する。

おもなもの

・学制の制定

・国立銀行条例公布

・太陽暦の採用

・地租改正

・徴兵制の布告 ほか

明治 6年(1873)

45歳:明治六年の政変

征韓論をめぐり、岩倉使節団に随行していた木戸孝允・大久保利通らと対立し、参議を辞任。鹿児島へ下野する。

明治 7年(1874)

46歳:私学校設立

鹿児島へ帰郷した西郷は、私学校を設立。しかし、私学校が整備され、勢力が拡大し、発言力が増す中で、中央政府からは目をつけられるようになる。

これに先立ち、3月には佐賀の乱がおきる。士族の反乱がこののち活発化していく。

明治 9年(1876)

48歳:各地で士族の反乱が相次ぐ

10月24日 神風連の乱(熊本)

10月27日 秋月の乱(福岡)

10月28日 萩の乱(山口) など

(3)西南戦争

明治10年(1877)

1月

49歳:西南戦争

政府による密偵が鹿児島に派遣され、戦争をさせないためにと鹿児島の武器弾薬を他に持ち出そうとする。

その時、私学校の生徒たちが武器弾薬庫を襲撃。のちに西郷暗殺計画も露見し、政府との対決姿勢をあらわにする。

 

明治10年(1877)

2月

【挙兵】

15日

私学校の生徒たち13000が、政府問罪のため、陸路上京を開始(事実上の挙兵)

 

明治10年(1877)

2月

【熊本鎮台(熊本城)包囲戦】

19日:熊本城焼失

官軍(政府軍)が立てこもる熊本鎮台(熊本城)内で火災発生。天守などが焼失。原因は不明。

守備兵戦力 約4000

 司令官:谷干城(のちの農商務大臣)

 参謀長:樺山資紀(のちの海軍大臣、台湾総督)

 

22日:(早朝)総攻撃開始

しかし、難攻不落の熊本城は落城せず、田原坂方面への転進を余儀なくされる。

明治10年(1877)

3月

【田原坂の戦い】

1日〜31日:田原坂の戦い

1日:戦闘開始

緒戦は薩軍が優勢。薩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に官軍が苦戦。

11日

植木口警視隊が抜刀隊を組織する

15日

警視抜刀隊らの活躍で薩軍を撃破。横平山を占領。

20日

官軍による総攻撃開始、薩軍がついに田原坂の防衛線を破られて敗走を開始する。

これによって、西南戦争の帰趨は決定したといってよい。西郷率いる薩軍は徐々に後退し、最終的には鹿児島の城山にて最後の決戦を挑むこととなった。

明治10年(1877)

9月

城山籠城戦

西南戦争最後の戦い。官軍は山縣有朋中将を頂点とする70000の戦力。薩軍は兵卒合わせ370人だったという。

22日:城山決死の檄

薩軍は西郷とともに最後まで戦うことを決意。

24日:西南戦争終結、西郷隆盛自決

官軍による総攻撃で、西郷自身も被弾、負傷。盟友の別府晋介に、 「晋どん、ここらでよかろう」 と言い、切腹。別府晋介の介錯によって死亡。

7か月に及んだ西南戦争は国内最大にして最後の内戦で、両軍の戦死者は1万3千人という壮絶なものとなった。

 

 

 

< 040 加藤清正 ¦ 042 池田勇人 >

西郷隆盛像

2.@鹿児島県鹿児島市

昭和12年(1937)建立

鹿児島出身の彫刻家、安藤照の作。安藤は空襲によって1945年に爆死しました。像高は5.257m、5.7頭身ということです。鹿児島にある西郷隆盛像は軍服姿。東京上野にある同じ西郷隆盛像と対照的です。

1.@東京都台東区

上野の西郷どん。

刀を佩いていますが、犬を連れてリラックス姿。西郷隆盛といえばこちらをイメージする人の方が多いでしょうか。

▲top