シリーズ > 歴史人物 > 033 山内一豊

2019-03-10 2019-03-10

山内一豊(やまうち かずとよ)

Yukimura SANADA:(1545,46? - 1605)功名が辻

山内一豊:織田家の家臣の末席にいたが、出世して最後は土佐一国の主人となった。

【基本データ】

名前 山内一豊( やまうち かずとよ )
生没年

天文14年 (又は天分15年) - 慶長10年 9月20日

( 1545?46? - November 1,1605 )

改名

幼名:辰之助

別名

通称:伊右衛門、猪右衛門、対馬守

山内(やまのうち)・一豊(かつとよ) 諸説あり

生誕地

尾張国岩倉(愛知県岩倉市)

死没地

高知城内

戒名 大通院殿心峯宗伝大居士
官位 正五位下、対馬守、従四位下、土佐守 贈従三位
墓所 日輪山真如寺

家族

(主な人物)

父:山内盛豊

母:法秀尼

兄弟:(弟)康豊(土佐藩二代藩主、忠義の実父)

妻:(正室)千代(見性院)

子:与祢

養子:湘南宗化(拾)、直義(土佐藩2代藩主)

【生涯】

 岩倉織田氏当主、織田信安(のちに信賢)の家老だった山内盛豊の子として生まれた。生まれたのは、尾張国葉栗郡黒田(愛知県一宮市木曽川町黒田)にある山内家の居城だった黒田城。

 父と兄は、主君が織田信長との争いに敗れたときにともに討ち死にしたので、山内家を継いだものの流浪の生活を送ることになった。

 それからは、近隣諸国の豪族に仕えるなどしたが、尾張に帰参して織田信長に仕えるようになった。そこで、木下藤吉郎秀吉(のちの豊臣秀吉)の与力となった。 秀吉に仕えていた頃には、姉川の戦い(織田氏と浅井、朝倉氏との戦い)などで武功をあげ、順調に出世していった。その前後には、内助の功で有名な妻、千代(見性院)と結婚している。

 はじめ、400石で近江国浅井郡に所領を得てからは徐々に出世し、若狭高浜城主、近江長浜城主を経て、遠江掛川城5万1千石の城主となった。

 秀吉の死後は、徳川家康に従って、関ヶ原の戦いにおいても東軍として参加し、その功によって戦後の論孝行で土佐一国を与えられることになり、土佐国浦戸城に入城した。

 土佐には、もとの領主だった長宗我部氏の旧臣、一領具足の抵抗に悩まされるが、武断政治でこれを乗り切り、高知城を築城。高知城を居城とし、山内家の礎を築いた。 慶長11年(1605)に高知城で病死。享年60歳。

 

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山内一豊

@静岡県掛川市

掛川城天守にある山内一豊像。

山内一豊が掛川城主だったのは小田原攻めの後、その功によるものである。それから関ヶ原の戦いを経て土佐に移封されるまでの約10年間。その間で、掛川城は大幅な改修がなされ、近世城郭としての体裁が整えらえた。「丸に三つ葉柏」の旗印は山内家の家紋をあしらったもの。三菱のロゴに似ている。

山内一豊の銅像

@高知県高知市

山内一豊の銅像

高知城にある山内一豊の銅像。山内一豊が土佐24万石を与えられて入国したのは慶長6年(1601)のこと。高知城を築いた後も旧領主だった長宗我部氏の家来の流れを汲む一領具足と呼ばれる人々から激しい抵抗があったようで、統治の初期段階は圧政をしいたようである。一豊が没したのは、慶長10年(1605)なので、足掛け6年の短い統治だったが、山内家は土佐藩の領主として明治維新まで存続した。

案内板によると、「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる」とある。しかし、「三代を渡り歩いた」といわれてよく引き合いに出される武将に藤堂高虎がいたはずである。

山内一豊と妻の銅像

@岐阜県郡上市

山内一豊と妻

郡上八幡城(岐阜県郡上市)にある山内一豊と妻の銅像。千代の出自はよくわかっておらず、一説に郡上八幡城主遠藤盛数の娘と言われているため、ここに夫妻の銅像がある。千代に関しては、本名も定かではなく、その関係で、この銅像も「千代」の名前を使用するのを避けている。

像は、安土城下で行われた「馬揃え」のエピソードを表現している。

【馬揃え】

千代が引いているのは、安土城下で売られていた黄金十両の価値がある名馬(鏡栗毛)。一豊が若くてまだ貧しかった頃、「馬揃え」(兵馬品評会)が行われることになった。そこで、一豊はこの馬に目をつけたのである。しかし、黄金十両など当時の一豊にはとても出す事のできない金額。

その話を聞いた千代は、化粧箱の中から、隠し持っていた黄金十両を取り出して「このお金は一豊様に嫁ぐ時、実家の不破家からもらったお金です。一大事の時までは絶対に使うなと言われていました。しかし、今は夫の一大事。どうぞお使いください。」と言い、一豊に渡したのである。後日行われた馬揃えでは、ひときわ目立つ一豊の馬が織田信長の目に留まり、殊勝なことであると称えられたということである。千代の内助の功が発揮された一場面といえる。

 

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