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爆心地公園(工事中) |
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(長崎県長崎市松山町)
別名を「原爆公園」「落下中心地公園」などといいます。広くは平和公園に含まれ、その中の「祈りのゾーン」として犠牲者の冥福を祈る場所として位置づけられています。 |
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グラバー園(工事中) |
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(長崎県長崎市南山手町8番1号 )
昭和49年(1974)開園のグラバー園は、幕末に活躍したイギリスの実業家、トーマス・グラバーの旧邸宅をはじめ、長崎市内各所から移築されたレトロな洋館群が展示されています。 |
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旧長崎医大正門(工事中) |
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(長崎県長崎市坂本1丁目)
原子爆弾による被爆当時、長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)の正門だった門柱がのこされています。爆風によって浮き上ったままの姿をとどめる原子爆弾の遺構のひとつです。 |
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興福寺(工事中) |
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(長崎県長崎市寺町4番地32)
興福寺といえば、奈良にある藤原氏の氏寺で名高い興福寺が有名ですが、今回紹介するのは長崎にある唐寺。長崎三福寺のひとつ。黄檗宗発祥の地として有名です。インゲンマメで有名な隠元禅師ゆかりのお寺です。 |
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唐人屋敷跡(工事中) |
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(長崎県長崎市籠町・館内町 )
元禄2年(1689)に中国人の居留地として完成しました。周囲には堀と塀をめぐらして中に入れないようにしてありました。これは、密貿易を防止する目的のためでした。 |
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一本柱鳥居 |
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(長崎県長崎市坂本2丁目5-6 )
島原の乱の鎮圧を終えた松平伊豆守信網が、帰還途中に近江比叡山の麓坂本に景観が似ており、地名も同じことから、坂本にある日吉大社から日吉権現を観請して造られたのが始まり。一本柱鳥居や被爆した大クスなど見どころも多いです。 |
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如己堂 |
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(長崎県長崎市上野町22-6 )
長崎に投下された原子爆弾で被爆した、当時長崎医科大学の助教授だった永井隆博士の住まい。白血病でなくなるまで原爆に関わる医学的研究と反戦平和を訴える多くの著作をのこしました。 |
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旧大野木場小学校 |
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(長崎県南島原市深江町戊中通2189-2 )
平成3年(1991)の雲仙普賢岳の火砕流によって破壊焼失した小学校です。火砕流のすさまじさを実感できると思います。当時は、この小学校も全国的にメディアで大きくとり上げられました。 |
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崇福寺 |
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(長崎県長崎市鍛冶屋町7-5)
興福寺、福済寺とともに「長崎三福寺」といわれています。山号は聖寿山。寛永6年(1629)に長崎の華僑たちが建立した中国風のお寺です。九州に5つしかない国宝建築のうち2つがこのお寺にあります。 |
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長崎平和公園 |
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(長崎県長崎市松山町)
浦上地区の観光地としては、中心的な場所。原爆資料館や原爆落下中心地公園(爆心地公園・原爆公園)と隣接しています。中央にある像は北村西望作の平和祈念像です。 |
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玖島城 |
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(長崎県大村市玖島1丁目)
慶長4年(1599)に初代藩主、大村喜前が築城しました。現在は埋め立てられていますが、築城当時は、三方を海で囲まれていました。慶長19年(1614)の改修時には、築城の名人、加藤清正の助言を得たといわれています。 |
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浦上天主堂 |
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(長崎県長崎市本尾町1-79)
明治13年(1880)に最初の天主堂が建設されました。大正3年(1914)完成の天主堂は昭和20年(1945)に原爆によって破壊焼失。戦後、再建された天主堂は、昭和55年(1980)に改築され、現在に至っています。 |
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出島オランダ商館跡 |
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(長崎県長崎市出島町)
江戸時代、鎖国政策で長崎に造られた人口の島。初めは、ポルトガル人、後にオランダ人の居留地となりました。広さは、約1.3ヘクタールです。現在は埋め立てられましたが、旧状を取り戻そうとする取り組みがなされており、将来は、出島の全貌が復元されるそうです。 |
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島原武家屋敷 |
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(長崎県島原市下ノ丁)
中央に湧水が流れる用水溝があり、周りは石垣に囲まれています。かつては、屋敷と屋敷の間には壁がなく、鉄砲の筒を覗いたように奥まで見渡せたので鉄砲町と名づけられたといわれています。 |
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島原城 |
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(長崎県島原市城内1-1-1)
島原の乱をひきおこした分不相応なお城。小藩でありながらこれほどの巨大な城郭建築は、さぞ庶民のひんしゅくを買ったことでしょう。築城時の遺構は石垣と堀だけですが、天守閣をはじめ3つの三重櫓が再建されて見どころも多いです。 |
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シーボルト宅跡 |
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(長崎県長崎市鳴滝2丁目)
シーボルトは鳴滝塾などの私塾を開いて長崎の若者たちに教育を施すなど日本の近代化に貢献しました。また隣接するところには、オランダのシーボルト旧宅を模した記念館があります。 |
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諫早眼鏡橋 |
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(長崎県諫早市)
長崎の眼鏡橋を模してつくられたそうです。市内を流れる本明川に架けられていましたが、現在は川沿いにある市民の憩いの場、諫早公園内の池に移築されています。毎年のように氾濫していた本明川にあって、一度も流失しなかったそうです。 |
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長崎眼鏡橋 |
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(長崎県長崎市諏訪町〜栄町)
わが国最古の石造りアーチ橋。観光地長崎でも最も有名な観光スポットのひとつです。現在の橋は、昭和57年(1982)の長崎大水害で半壊・流失した後に作り変えられたものです。市内を流れる中島川にかかっています。周辺は多くの石橋が存在します。 |
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日本二十六聖人殉教地 |
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(長崎県長崎市西坂町7-8)
県指定史跡。慶長元年12月19日(1597年2月5日)秀吉のキリシタン禁令により大阪・京都で捕らえられ、長崎に護送された後、この地で処刑されました。この時の殉教者たちは、後に聖人に列せられました。 |
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亀山社中跡 |
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(長崎県長崎市伊良林2丁目)
かの有名な坂本竜馬らが設立した日本初の会社。海援隊の前身となりました。現在の建物は、当時の亀山社中として使われたものの一部も含めて、「亀山社中ば生かす会」という長崎市の市民グループが管理しています。入場無料で開放されています。 |
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大浦天主堂 |
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(長崎県長崎市南山手町5番3号)
教会建築としては唯一の国宝指定の建造物。日本最古の木造ゴシック建築で、正式には「二十六聖殉教者天主堂」といいます。実際の建築は、熊本県天草出身の大工、小山秀という人物が担当しました。 |
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原 城 |
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(長崎県南高来郡南有馬町浦田名)
島原・天草一揆の激戦地。2万7千人もの一揆軍が立て籠りました。首領はあの有名な天草四郎です。幕府は九州の諸大名に鎮圧を命じて何とか一揆を鎮圧しました。この島原・天草一揆は島原の乱とも呼ばれています。 |