佐賀藩諫早家が治めていた江戸時代、市内の中心を流れる本明川は毎年のように氾濫していたので、まともな橋はなく、市民は川のあちこちに飛び石を並べてそれを渡ったりするなど不便な生活をしていました。そんな折、幕府から領地検分の使者がやってくることになりました。そこで、川を渡るのに飛び石を使わせては諫早の恥になるので、橋を架けようとの機運が沸き、市民の募金・僧侶の托鉢などで資金を集め、架けられました。長崎の眼鏡橋をもとにしたといわれています。橋の長さ49.25m、幅5.5m、石の数は約2800個も使用しています。非常に頑丈な橋で、毎年のように氾濫していた本明川に架けられましたが、以後は一度も流失することはありませんでした。昭和36年の川幅の拡張工事に伴って一度は壊される運命にありましたが、市民の呼びかけにより、もとあった場所から約450m離れた現在の場所(諫早公園)に移築されて事なきを得ました。ここだと、洪水による氾濫の心配もありません。