天守閣は、元和2年(1616)の築城時から明治8年(1875)の破却まで存続し続けました。外観は破風が一切無く、どこか単調に見えますが、その分他のお城にはない特徴を持っているといえます。現在の天守閣は古い絵図などを参考に昭和39年(1964)再建されたそうですが、築城時には海鼠壁が四層目まであったらしいなど、あまり正確ではないとのことです。 |
警察の派出所の脇に、島原城の正門である大手門の跡を示す碑があります。
|
丑寅櫓は現在、民具資料館として利用されています。島原城に3つある三重櫓のひとつです。昭和55年(1980)に再建されました。
|
西櫓は天守閣再建に先立って昭和35年(1960)に再建されました。三重櫓です。天守閣がある場所よりも一段高い位置にあります。島原城は地形を無視して造られた城郭とのことですが、本丸よりも高い位置にあるのもそのせいでしょうか。
|
キリシタン大名の有馬氏の時代は島原でも宣教活動が活発に行われていました。しかし、時代を経て、禁教そして弾圧へとキリシタンに対する処遇も変わりました。とりわけ松倉氏はキリシタンを弾圧し、島原城築城や天下普請の積極的な協力などによって島原の乱を招く要因をつくってしまいました。
|
幕末の藩主、松平忠和公の時代。藩主が藩士の訓練状況を見るのに使用していたとの事です。島原城の三の丸にあったものをこの場所に移築したものです。
|
二の丸と本丸の間の部分です。かつては、ここに橋が架けられていて、その橋を渡ってのみ本丸へ入ることができていました。現在、本丸へと入ることができる入口は最近造られたものです。 |
連郭式の平城で、五層の天守閣の他に三重櫓が3つ存在する豪壮なお城です。築城したのは大和五条(奈良県)から移封された松倉豊後守重政です。別名を森岳城といいます。城門は7ヶ所、平櫓の総数は33棟あったとのことです。
|