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長崎県の歴史シリーズ

島原城
所在地
長崎県島原市城内1丁目
→島原鉄道 島原駅下車
歴 史
連郭式の平城で、五層の天守閣の他に三重櫓(丑寅櫓・巽櫓・西櫓)が3つ存在する豪壮なお城です。堀も長方形に整備され、死角をなくすため角をいくつも設けています。城門は7ヶ所、平櫓の総数は33棟あったとのことです。これほどの城郭建築は大藩でも珍しいといえます。築城したのは大和五条(奈良県)から移封された松倉豊後守重政で、別名を森岳城といいます。
付近の歴史スポット
島原武家屋敷 島原城の城下町、鉄砲町と呼ばれていました
原城跡 島原の乱の激戦地
外部リンク
島原城 島原城オフィシャルホームページ
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天守閣 大手門跡 丑寅櫓 西櫓
天守閣は、元和2年(1616)の築城時から明治8年(1875)の破却まで存続し続けました。外観は破風が一切無く、どこか単調に見えますが、その分他のお城にはない特徴を持っているといえます。現在の天守閣は古い絵図などを参考に昭和39年(1964)再建されたそうですが、築城時には海鼠壁が四層目まであったらしいなど、あまり正確ではないとのことです。
警察の派出所の脇に、島原城の正門である大手門の跡を示す碑があります。
丑寅櫓は現在、民具資料館として利用されています。島原城に3つある三重櫓のひとつです。昭和55年(1980)に再建されました。
西櫓は天守閣再建に先立って昭和35年(1960)に再建されました。三重櫓です。天守閣がある場所よりも一段高い位置にあります。島原城は地形を無視して造られた城郭とのことですが、本丸よりも高い位置にあるのもそのせいでしょうか。
きりしたん墓碑 御馬見所 内堀 島原城遠景
キリシタン大名の有馬氏の時代は島原でも宣教活動が活発に行われていました。しかし、時代を経て、禁教そして弾圧へとキリシタンに対する処遇も変わりました。とりわけ松倉氏はキリシタンを弾圧し、島原城築城や天下普請の積極的な協力などによって島原の乱を招く要因をつくってしまいました。
幕末の藩主、松平忠和公の時代。藩主が藩士の訓練状況を見るのに使用していたとの事です。島原城の三の丸にあったものをこの場所に移築したものです。
二の丸と本丸の間の部分です。かつては、ここに橋が架けられていて、その橋を渡ってのみ本丸へ入ることができていました。現在、本丸へと入ることができる入口は最近造られたものです。
連郭式の平城で、五層の天守閣の他に三重櫓が3つ存在する豪壮なお城です。築城したのは大和五条(奈良県)から移封された松倉豊後守重政です。別名を森岳城といいます。城門は7ヶ所、平櫓の総数は33棟あったとのことです。
巽櫓 北村西望像
巽の櫓は、北村西望記念館として使用されています。日本彫刻界の巨匠である北村西望の作品、約60点を展示しています。
明治17年12月16日、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南有馬町)に生まれました。日本彫刻界の巨匠で数々の作品をつくりました。中でも長崎市の平和公園内にある「平和記念像」は代表作といってよいでしょう。他にも国会議事堂内にある「板垣退助翁像」などを制作しました。昭和62年3月4日、享年104歳で没しました。
0407シーボルト宅跡 0409島原武家屋敷
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