中央に用水溝が流れています。幅は70cmで周りは石垣で固められています。この水は湧き水で飲料水としても利用されていました。回りは石を積み上げた塀で囲まれていますが、防御としての意図もあったことでしょう。
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佐久間家は、二代藩主松平忠雄公時代に、知行高100石とこの地に屋敷を下賜されました。時の当主、佐久間太郎左衛門の名を代々佐久間家は世襲しました。
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鳥田家は藩主松平氏の転封に伴って、三河国吉田、そして丹波国福知山を経て寛文9年(1669)、島原に入りました。地方代官や郡方物書、材木奉行などの要職を歴代にわたり多くの重職につきました。
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藩主松平忠房公は、民に時を告げるために、ここに鐘楼を築いて、延宝3年(1675)豊後高田の知工、藤原正次に巨鐘を鋳造させました。島原の人々には、おかみの鐘として親しまれていましたが、昭和19年(1944)に太平洋戦争のために供出されました。昭和55年(1980)に復元されて現在に至っています。
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