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7.日見にて

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峠を下ってきたところ。
奥に見えるのは日見トンネル東口。
(18)日見トンネル東入り口

日見トンネルの東側のトンネル入口へ下りてきたところです。ここから日見の宿場町までさらに下りが続きます。現在の長崎市芒塚町・宿町付近を歩くことになりますが、現在の地名にも当時の街道の名残りがみられます。

(19)スイカ

ここで校長先生が登場しました。様子を伺いにきたようですが、生徒たちのがんばって歩いている姿に満足そうでした。
さらに、スイカと缶ジュースの差入れがありました。我々の取り組みに賛同・協力してもらって感謝・感動です。

スイカと缶ジュース

(20)日見の宿場町

日見川にそって長崎街道は下っていきます。下った先に長崎街道最初の宿場町である日見宿がありました。





植物を観察しています。
この坂をまっすぐ下った先が日見宿跡です。また、この辺りには日見の【継ぎ場】がありました。

長崎街道を歩くことは、単に長崎街道の勉強に終始しません。このように、自然と触れることによって様々な体験ができるという点もこの巡検の目的のひとつです。

(21)日見の宿跡

【日見の宿跡】には、かつて宿場町だったことを示す碑が建っています。

【日見の宿跡】

日見宿入口
手前の日見川に架かる橋は
【三国屋橋】です。

日見宿出口
ここを出ると、再び登りです。
【腹切坂】が待っています。


【腹切坂】
(22)腹切坂

この坂は、当時【腹切坂】と呼ばれていました。現在は、国道の再開発によって中断されてしまっています。残念。

ちなみに、幼少のころ私は「止まらない坂」と名づけていた。

【腹切坂】の碑

腹切坂を登りきり、頂上まで来たところには現在もこのように【領境石碑】が建っていました。
眼下には橘湾(千々石湾)が見えました。雲仙岳がかすかにみえるでしょうか。さらにその向こう側に、熊本県の天草さえ見える日もあるのです。
【継ぎ場】
(つぎば)日見継ぎ場跡。駕籠(かご)や荷物の中継ぎをするところ。従って、駕籠かきや人足、或いは旅人の休憩所のこと。大きな藤棚があり、その下で休んでいた。



【三国屋橋】
(みくにやばし) 江戸時代この地に三国屋という酒屋があり、飛脚もやっていた。
 ある日、三国屋の二代目である五郎七は、江戸から急ぎの書状を長崎代官所へ届ける用事があった。しかし、ちょうど梅雨時期で、日見川が氾濫して川を渡ることができなかった。しかし、意を決した五郎七は危険を顧みず、裸になり書状を頭に巻いて日見川渡り、無事に代官所へ書状を届けたのである。これを知った代官は、労をねぎらって「褒美をとらせるので何か望むものはないか」と聞いたところ、五郎七は次のように答えた。
 「何も望むものはございませんが、土地の者も、多くの旅人もこの日見川に橋がないので大変難儀しています。願わくは、日見川に橋を架けてください。」
 この言葉に感動した代官は、切り石で組んだアーチ橋を架けて、五郎七の屋号をとり、三国屋橋と名付けた。
 現在の三国屋橋は、昭和44年に架けかえられたが、橋名は当時と同様である。



【日見宿】
(ひみしゅく)長崎街道の長崎から数えて最初にある宿場町。日見峠をこえて下ってきたところにあり、長崎街道往来の重要な中継所であった。「長崎ぶらぶら節」で有名な愛八の出身地である網場町もこの近くにある。



【腹切坂】
(はらきりざか)腹切坂の名の由来には諸説がある。

@その昔、ひとりの武家(熊本の細川藩の家臣といわれる)が日見地方の豪士(農民、作左衛門)に剣術の試合を挑んだが、敗れた。これを無念に思い、武士の面目が立たないとこの坂のあたりで切腹したといわれている。

A@とは逆に、作左衛門が負けて切腹したとも伝えられている。

Bフェートン号事件に対して何ら有効な対策対応をとることができなかった長崎奉行の松平図書頭はが責任を感じて自刃するというできごとがあった。この年の長崎港警備は佐賀藩であったが、この事件を帰藩して報告しようとしたが、いずれない命と覚悟して切腹した。



【領境石碑】
(りょうきょうせきひ)これより北、佐賀領と書かれてあります。これより北、矢上方面は佐賀藩諫早家領、日見方面は、幕府直轄領だった。

いよいよゴールです!

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