大浦天主堂 Oura Church
大浦天主堂 Oura Tenshudo ( Oura Catholic Church, NAGASAKI )
フランス人宣教師のフューレ神父は、文久3年(1863)、同じ宣教師のプチジャン神父の協力を得て、天主堂の建設を行いました。実際に建築を行ったのは熊本県天草出身の小山秀という大工たちでした。元治元年(1864)竣工、翌年の慶応元年(1865)に落成式が行われました。
大浦天主堂 Oura Tenshudo ( Oura Catholic Church, NAGASAKI )
この写真は、隣にある有名な観光地であるグラバー園から撮影しました。長崎の歴史的建造物は、少なからず昭和20年(1945)の原爆投下によって被害を受けていますが、この大浦天主堂も例外ではなく、窓に飾られたステンドグラスなどが破壊されました。しかし、すぐに修復工事がなされ、昭和27年(1952)には完了しています。
聖母マリア像
教会堂の入り口のマリア像。台座には「慶応元年三月十七日 日本之聖母 信徒発見記念」とあります。教会に訪れた人々を出迎えています。
元治2年は4月7日までなので細かいことをいえば「慶応元年」ではなく「元治二年」となるかもしれません。
教皇ヨハネ・パウロ2世
1981年2月26日、この地を訪問し「ここは日本の新しい教会の信仰と殉教と宣教の原点です。」とのべられました。台座にその言葉がかkれてあります。
プチジャン神父
神父はパリ外国宣教会に入会し、文久2年(1862)に来日。よく年に長崎へ渡り、以降、1884年に死去するまで日本のカトリックの発展に貢献しました。あの「信徒発見」の時の神父です。(プティジャン神父とも表記)
「信徒発見」のレリーフ
1865年3月17日(元治2年2月20日)、この地でおこった歴史的出来事「信徒発見」のようすを表すレリーフ。当時のローマ教皇ピオ9世は「東洋の奇蹟」とよびました。
おや、少しずうずうしくなったぞ、日本人たちはもっと近くまでやってきたようだ。間近で祭壇や祭壇の上の金色の十字架、燭台をしかと見ようというわけか、そして教会の外でこわごわ待っている仲間に得意気に報告するわけか。
「こがんごと、おかしか物の並んどったばい、ありゃ、なんて言うとじゃろね」
その会話までがプチジャンには耳に聞こえるようだった。その時、
「異人さま・・・・・・。うちらはみな・・・・・・異人さまと同じ心にござります」
女の声だった。中年の女の声だった。女がすぐ背後で重大な秘密をうちあけるように、小さくささやいた。
・・・遠藤周作『女の一生 一部・キクの場合』より
【解説】東洋の奇蹟「信徒発見」とは?
◆ 信徒発見まで◆
戦国時代の1549年に日本に伝来したキリスト教は、順調に信徒を増やしていきましたが、その後、豊臣秀吉、徳川幕府と政権が移っていく中で、迫害の対象となっていました。特に1637年におこった島原・天草一揆以降は、キリシタン(キリスト教徒)は日本ではほぼ絶滅したものと西洋では考えられていたようです。
しかし、幕末に開国がされ、再び西洋との交易が始まると、駐日のヨーロッパ人の為に各地で教会がつくられはじめました。長崎でも、安政5年(1858)の日仏修好通商条約(いわゆる「安政の五カ国条約」)に基づいて教会が建設されました。そうして、元治2年(1865)に完成したのがこの大浦天主堂(正式には『二十六聖殉教者堂』)です。
完成当初からその特異な外観は地元の興味の対象となっていたようで、「フランス寺」という通称で多くの見物客がいたということです。
◆ 1865年3月17日(元治2年2月20日)「信徒発見」◆
大浦天主堂のプチジャン神父は、その日、見物に訪れていた浦上(長崎市)の住民の一人、ある女性から、
「神父様と同じ心であります」
と、信仰の告白をしました。プチジャン神父は、数世紀もの間、迫害に耐えながら信仰を守り続けていたキリスト教徒(「潜伏キリシタン」、通称「隠れキリシタン」)が多数いることを知り大いにおどろきました。この事実は、当時のローマ教皇ピオ9世にもたらされ、「東洋の奇蹟」といわれました。
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 〒850-0931 長崎県長崎市南山手町5-3 |
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交通 | JR長崎駅からは、市電1番「正覚寺下」行きに乗ります。「築町」で乗り換えて今度は「石橋」行きに乗ります。尚、築町では「のりかえ券」を受け取れば、乗り換えた電車はタダです。「大浦天主堂」下車、徒歩5分。長崎駅から歩くと30~40分はかかります。 |
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文化財指定 | 国宝 |
2017/01/05 現在