原城跡 Hara Castle
原城跡 Hara-jo ( Hara Castle, Nagasaki )
原城は明応5年(1496)、領主有馬貴純が築城したものです。有明海を航行する船は原城に美しさに見とれ、つい時の経つのも忘れて日暮れまで見入ってしまうというので、別名「日暮城」と呼ばれていました。元和2年(1616)に、松倉重政がこの地を治めるようになりましたが、一国一城令により島原城を居城とし、その建築に原城から多くの資材を運んだため、廃城となってしまいました。
天草四郎像 Shiro Amakusa ( Statue of Shiro Amakusa )
本丸には、天草四郎像があります。1637年10月25日、この天草四郎時貞を盟主に反乱が起こりました。本名を益田時貞といい、関ヶ原の戦い(1600)に敗れて処刑された小西行長の家臣、益田好次の子といわれています。この時まだ、16歳でした。こうして、約3万7千人(2万7千人とも)の一揆軍が原城に終結しました。初めは、幕府から派遣された鎮圧軍に対して善戦し、幕府側も多くの死傷者が出ました。戦いは、長期戦の様相を呈してきましたので、鎮圧軍は兵糧攻めに切り換え、一揆軍を追い込む作戦をとりました。
空堀(空濠) Kara-bori
ここは、空濠(からぼり)といい、一揆軍が防衛のために構築したくぼみです。籠城の時はこの上をカヤでおおい、非戦闘員を収容していたところでした。食料がそこをついてきた一揆軍は、1638年2月21日、約4千人が食料奪取を目的に空濠に集結し、夜襲を試みました。しかし、失敗に終わりました。
大手門跡 Otemon ( Main Gate )
ここには、原城の表玄関、大手門がありました。よって、一揆軍も有馬藍物や大江源衛門らの指揮のもと3500名もの農民が死守していました。しかし、2月28日の総攻撃の時、細川軍がこれを破り、一揆軍を全滅しました。大手門が破られた原城は、その日のうちに落城することになります。
天草四郎の墓 Grave of Shiro Amakusa
本丸のかたわらには、天草四郎の墓がありました。天草四郎自身も、2月28日の戦闘で敗死しました。
島原・天草一揆(島原の乱)攻囲図 ( Siege of Hara-jo, 1637 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 長崎県南島原市南有馬町乙1023 |
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交通 | JRの最寄駅はなし 島原鉄道 島原駅よりバス |
リンク | |
文化財指定 | 国指定史跡 |
2016/03/11 現在