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■探訪記(2009.04.05) |
所在地 : 滋賀県彦根市金亀町
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堀と石垣と桜 |
彦根城は日本に4つしかない国宝天守閣を持つお城のひとつです。
残りの3つは、姫路城(兵庫県)・松本城(長野県)・犬山城(愛知県)です。それらのうちでも、大きさこそ大したものではないにしても外観の美しさは随一といってよいと思います。彦根城も何度も訪れているのですが、桜の時期に来たのは初めて。若干満開には早かったものの、美しい桜とお城を見ることができました。
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二の丸佐和口多聞櫓 |
二の丸佐和口
現在の実質的な表門 |
重要文化財
二の丸佐和口多聞櫓 |
行き止まり
二の丸佐和口多門櫓 |
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二の丸佐和口はJR彦根駅から最短の距離にあることもあり、現在では彦根城でももっとも人の往来がある入口になっています。なお、二の丸佐和口前の堀沿いに、右手に折れて歩いた先には幕末の大老井伊直弼が若いころ過ごした「埋木舎」(うもれぎのや)があります。
佐和口の入口に向って左側が重要文化財の建築物で、右側は昭和35年(1960)に外観を復元した城内唯一の鉄筋コンクリート造りの建物となっています。
重要文化財となっている部分は、内部が公開されており、土壁や○・△・□といった形の狭間が見られます。これは、佐和口から侵入する敵を迎撃するためのものですが、彦根城にある京橋口、船町口、長橋口にといった他の入口と比べても、大手門へとつながる京橋口に匹敵するだけの重要な入口として重要視されていたらしく、かなり厳重に造られていました。
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馬屋 |
重要文化財「馬屋」 |
馬屋内部 |
江戸時代の馬(模型) |
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佐和口をくぐると二の丸です。ここに重要文化財の馬屋があります。内部は江戸時代の馬が模型として展示されています。建物自体はL字型をしていますが、往時はもっと大きかったとの事です。
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彦根城博物館(表御殿) |
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内掘にかかる表門橋を渡ったところには、これも明治まで櫓門や隅櫓が残っていたそうですが、現在は何もありません。また、表御殿と呼ばれる藩の政務所もありましたが、現存していません。とはいえ、表御殿の方は詳細な発掘調査と史料の検証によって、外観を復興して彦根城博物館として公開されています。中には能舞台もあります。
彦根城博物館の展示の中で、ひときわ目をひくのが赤で統一された甲冑です。もちろんこれは、戦国時代から続く「井伊の赤備え」からきているものですが、それぞれに微妙な違いがあって見比べるとなかなか興味深いです。
初代藩主井伊直政は関ヶ原の戦いで先鋒を務めましたが、このように井伊家は徳川軍の常に先鋒を担当し、数々の戦いにおいて、「井伊の赤備え」といわれ恐れられていました。直政は関ヶ原の戦いのときの傷がもとで他界しますが、その後、直継、直孝と井伊家当主が変わり(井伊家系譜」によると、直孝が二代藩主となっている)、太平の世の中になっても「徳川の先鋒」という家格は変わりませんでした。諸大名が集まっての江戸城内で行われる式典などでは先頭を歩くことが許されていたほどです。
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井伊直弼所用の具足
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直亮(直弼の父)の具足
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直亮(直弼の兄)の具足
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廊下橋と鐘の丸 |
登り口(苔むした石垣が立派) |
廊下橋と天秤櫓が見えてきた |
天秤櫓全景 |
鐘の丸 |
天秤櫓 |
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表御殿(彦根城博物館)に立ち寄った後は、再び本丸へ登っていきます。この表御殿付近からいよいよ金亀山へ登っていくことになります。とはいえ所詮平山城。山城ほどの険しさは全くなく、簡単に上までたどりつくことができます。とはいえ、普通の石段に比べて若干登りづらくなっています。何でも、敵が攻めてきたときに疲れさせたり、下を向きながら登らせるために、石段の高さや幅をわざと不規則にして一息で登れないように工夫しているとの事です。
石段を上った先に最初に見えてくるのが廊下橋と天秤櫓です。本丸へはこの廊下橋を渡り、天秤櫓をくぐってからでしか行くことはできません。したがって、いざというときはこの廊下橋を落とし、本丸を孤立させせることも可能だったのです。
廊下橋の下をくぐって、左にぐるっと回った先は鐘の丸という郭があります。ここ鐘の丸には築城当初から時を告げる鐘が置いてあったのでその名がついたそうですが、南北に細長い金亀山の南端に位置しており、城下北方に鐘の音が聞こえないなど、場所的に難があったために時報鐘自体は別のところに移されています。鐘の丸は現在広場となっており、桜の木が植えてあることもあって花見客で賑わっていました。
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天秤櫓から太鼓門へ |
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天秤櫓は長浜城からの移築といわれています。内部にも入れるようになっていて、内側から外の様子をうかがうことができます。特に廊下橋側は石垣が高さ11mもあり、鐘の丸と天秤櫓にはさまれた登城道は、さながら空掘のようです。
内部の窓の格子木は、他のお城にもよく見られますが、ひし形となっており、鉄砲や弓矢で敵を広く狙いやすくしてあります。城内の数ある櫓の中でも、特に防御の機能が充実した「守りのための櫓」だったということがわかります。それだけ、この位置が彦根城にとって重要ということなのだろうと思います。
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天秤櫓をくぐりさらに登り進めていくと、左手に時報鐘があります。弘化元年(1844)に当時の藩主、井伊直亮が鋳造したものが現存しています。現在でも一日五回、時を告げるために鳴らされているそうで、「日本の音風景100選」にも「彦根城の時報鐘と虫の音」として選ばれています。
この時報鐘あたりからは、太鼓門櫓とそれに続く太鼓門が目にとまります。ここが彦根城の中枢、本丸の入口にあたる重要な部分となります。本丸へは、他にも西の丸経由や、西の丸手前の黒門からの登っていく道などがありますが、ここから本丸へとはいって行く人が現在でも最も多いといえます。それだけ、今も昔も登城ルートとして重要な道という認識があったということでしょう。厳重な太鼓門をくぐると、やっと本丸に行くことができるのです。
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本丸(天守閣) |
彦根城天守
東側から |
月見櫓跡から
(以前撮影したもの) |
天守閣の石垣
牛蒡積み |
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国宝でもある彦根城の天守閣は、大きくはないものの非常に美しい外観をしていると思います。「日本100名城スタンプ」も天守閣をデザインとしていますが、スタンプにある東側から見た天守閣の姿より、月見櫓があった付近からの眺めがいいかと思います。これは、以前彦根城を訪れた際に偶然発見したのですが、今回は同様の撮影場所を見つけることができずじまいでした。
天守閣の石垣がまた特徴的です。これは「牛蒡(ごぼう)積み」と呼ばれている積み方で、彦根城独特の積み方です。外観としては石の配置が不揃いな感じがして「野面積み」に近いようですが、大きな石の隙間に小石を詰める手法は「打ち込みハギ積み」に似ているともとれるかもしれません。打ち込みハギよりも小石の部分が広く一見弱そうです。しかし、その分中に雨水をためない構造になるので、見た目よりもかなり頑丈な積み方なのだそうです。
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西の丸 |
西の丸三重櫓
(重要文化財) |
西の丸三重櫓内部
小谷城天守閣の移築と伝わる |
佐和山
石田三成の居城「佐和山城」 |
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天守閣の南側をぐるっとまわり、階段を下りた一段低くなったところが西の丸になります。「西の丸」と名前が付いていますが、実際は本丸から見て北側に位置しているように思います。この付近には黒門から楽々園(庭園)へと至る下り道があります。実際、この道を通って下りていく観光客がほとんどですが、彦根城はまだまだ見どころが多数あります。
彦根城の天守閣は京極高次の大津城からの移築といわれているそうですが、西の丸三重櫓(重文)も他の場所から移築されたものと伝わっています。ついでにいえば、天秤櫓も長浜城の大手門を移築したものと伝わっています。
さて、その西の丸三重櫓は、浅井長政の居城だった「小谷城」からの移築といわれています。小谷城では天守閣だったという話です。確かなことは分からないとのことですが、いくら浅井氏が北近江の名門大名だったとしても、戦国期の山城にこのように漆喰で塗り込めた美しい建物があったのかは私としては疑問が残ります。もちろん、のちに白壁としたといえばそうなのでしょうけど、外側とちがって内側は一、二層ともに窓がない造りになっています。つまり、純粋に「戦闘のための櫓」のような気がするのです。
なお、西の丸からはあの石田三成が居城とした佐和山城がある佐和山がみられます。彦根城と佐和山城は目と鼻の先に位置しているのです。もともと関ヶ原の戦いの後に、初代藩主の井伊直政は佐和山城に入ったということです。その後、新城を建設するにあたり、初めは別のところ(磯山)に白羽の矢を立てていましたが、その後、現在の彦根城がある金亀山とすることになりました。
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大堀切 |
出郭(観音台)へつながる
厳重な枡形をしている
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大堀切
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大堀切は山麓まで続く
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西の丸から桝形になっている道を北に向かうと巨大な堀切があります。その名も「大堀切」というそうです。写真では分かりづらいですが、この「大堀切」はふもとまで続いており、現在でも辛うじて確認することができます。彦根城の北側は南側と比べてどうかと思いましたが、なかなか厳重な造りをしています。戦国期の山城に多く見られる堀切ですが、太平の世になってもお城に装備するところなんかは、さすが武門で名をはせた井伊氏の居城といったところです。せっかく彦根城に来てもここに訪れる人は少ないです。戦国時代に活躍した近江の石工集団「穴太衆」が築いたといわれる石垣も立派で、お城を堪能するならぜひ立ち寄って欲しいところではあります。
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山崎郭付近 |
山崎郭全景
人がほとんどいなくて落ち着ける |
シダレザクラ1
山崎郭にて |
シダレザクラ
山崎郭にて |
山崎郭から1 |
山崎郭から2 |
山崎門 |
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お城を堪能したい人もそうでない人も、彦根城の北端に位置するこの「山崎郭」にはぜひ立ち寄った方がいいところです。私が行ったときは、鐘の丸や本丸、はたまた楽々園付近は多くの花見客(観光客)でそれこそ騒然としていたのに対し、ここは閑散としています。花見客も私が行った時間帯は、たぶん一日で最も人が多い時間帯だったと予想されるのですが、数人しかいませんでした。なのに、ここはおそらく彦根城で最も桜がきれいな所だといえると思うのです。騒然とした雰囲気が苦手で、静かにお花見を楽しみたいなら、断然ここがおすすめです。
また、この付近は「山崎口」とよばれる彦根城に四つある入口のひとつがあったところでした。現在は、入口門は閉ざされており、半ば朽ち果ててしまっています。他の場所とちがって整備されていない、「生の」お城の姿が見られるのです。
山崎郭は、おそらく北端の山崎口を守る拠点として、そして内堀と中堀がつながる重要な地点として位置づけられていたことと思います。現在は建物が残されていないものの、当時は3つの櫓で囲まれていて、そのうちのひとつは三重だったといいます。
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玄宮園 |
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玄宮園は彦根城の北東にある大名庭園で、隣接する楽々園は井伊直弼の生誕地でもあります。池泉回遊式庭園で、何と彦根城天守閣を借景にしています。また、地震の間とよばれる地震のときの避難小屋があることでも有名です。
ここから見る天守閣も格別で、もっともその美しさが映える角度のひとつといえると思います。藩主が重要な客人をもてなすときは、きまってこの玄宮園を使用したといいます。
なお、この付近に衣冠束帯姿の井伊直弼像があります。井伊直弼はNHK大河ドラマの記念すべき第一作「花の生涯」の主人公です。近くにはそれを顕彰する記念碑もあります。
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一眼レフデジカメのAEブラケット機能(AEB機能)で玄宮園から望む天守閣を撮影
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彦根城といえば、「ひこにゃん」 |
2009.04.05訪問
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