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 関ヶ原の戦い
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関ヶ原には、討ち取られた西軍の首級の血や土を洗った時に使われたといわれる井戸も残されています
■午後5時ころ

陣場野の床几場


首洗いの井戸


東首塚

 
東軍の勝利

 討ち取られた西軍の首級は、家康の陣地である陣場野へ届けられました。現場には、首実検に先立って、血や土を洗い落とした時に使われたといわれている井戸も残されています。

 家康は主だった首級の首実検を自ら行った後、首塚をつくり、丁重に葬りました。この首塚は、東西ふたつに分けられ、その両方が現在も残っています。

 このように戦国時代は合戦の勝利側が敵味方の戦死者を弔って供養塚を築くというのがならわしであったということです。この供養という行為は、いわば戦いに勝ったという証であり、それを実感するものであったことでしょう。

 それとともに、東軍の諸将が戦勝を祝いに家康のもとに次々とやってきました。

 初めに黒田長政。それから福島正則といった具合です。さらに、島津隊を最後まで追撃した井伊直政と松平忠吉(家康の四男)が帰還してきました。

 井伊直政と松平忠吉はともに負傷していました。これに対し、家康は自ら傷の手当てをしました。直政には、

「汝が軍功は今に始めぬ事」

と、その戦いと忠義をねぎらったということです。さらに、勝利を祝して凱歌をおあげなされませとの声に、家康は、

「東軍諸将の妻子は、今なお人質として敵のもとにあるこれを救出した後に凱歌をあげるがよかろう」

といいました。東軍諸将はこれを聞き、非常に喜びました。



 このように、意気軒昂だった勝利後の東軍諸将の中で、肩身の狭い思いをしていたのが、小早川秀秋や脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠などのいわゆる「寝返り組」だったに違いありません。小早川秀秋は、最後まで東軍西軍のどちらにつくか迷っていたといういきさつもあり、家康と引見する際にはかなり緊張したに違いありません。

 それに対し、家康は満面の笑みをたたえながら、

「貴殿の今日の戦功は甚大なれば、今後遺恨はない」

 と言いました。しかし一方で、

「これより江州佐和山にいたり、石田の居城を攻落さるべし」

 と申しつけました。戦功を上げさせる機会を自ら与えたのか、それとも戦局を大いに左右する局面でやきもきさせたことへの報復なのか・・・。小早川秀秋にとってみれば、佐和山攻めで戦功を上げ、裏切り者の汚名をそそぎたいと思っていたには違いありません。それを物語るかのように、次の瞬間、

「それがしにも御下命を」

 と自ら申し出てきたのは、脇坂、朽木、小川らの裏切り組でした。結局、軍監として井伊直政が付き、その日のうちに佐和山へと出立していったのでした。



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