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関ヶ原の戦い |
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(決戦関ヶ原) 01決戦関ヶ原 |
■慶長5年9月15日(1600.10.21) |
1.先陣争い |
慶長5年9月15日(1600.10.21)に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍(総大将は名目上毛利輝元となっている)が関ヶ原に布陣しました。資料によって前後はありますが、東軍74000、西軍82000の大軍(両軍ともに諸説あり)が対峙しました。決戦が始まったのは、午前8時ころです。>>続きを読む |
2.両軍激突 |
岡山(丸山)の山頂には、黒田長政と竹中重門の隊が布陣していました。午前8時ころ、開戦の火蓋が切られると、この烽火場から狼煙を上げて戦いが始まったことを東軍の諸隊に知らせ、戦闘を開始することを伝えました。同時に、西軍が陣取る笹尾山と北天満山からも狼煙が上がり、戦いが開始されました。>>続きを読む |
3.島左近被弾 |
石田三成隊6000は、三つの部隊に分けられて、それぞれ大将の石田三成、家臣の蒲生郷舎(さといえ)、島左近勝猛が指揮していました。>>続きを読む |
4.宇喜多隊の奮戦・家康本陣の動き |
戦闘が開始されて2時間余り。しかし、戦況は一進一退でどちらが勝つとも知れませんでした。ただ、依然として南宮山の毛利隊、吉川隊や松尾山の小早川隊は動かず、戦闘には参加していたものの消極的で独自の動きを見せる島津隊など、西軍の動きはぎこちないものでした。>>続きを読む |
5.島津隊動かず |
石田三成の隊は細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、黒田長政らから集中攻撃を浴び続けています。そこで、笹尾山の隣に布陣していた島津義弘の陣へ三成は家臣の八十島助左衛門をつかわして加勢を頼みに行かせました。>>続きを読む |
6.宰相殿の空弁当 |
笹尾山から上がった合図の狼煙を見て、一部の将兵が、さぁ出陣と動き出そうとします。その時に、南宮山の主力、毛利秀元隊の前に陣取っていた吉川広家が、「動くことまかりならぬ」といって制止します。>>続きを読む |
7.松尾山も動かず |
笹尾山の石田三成から、再三の出陣を合図する狼煙を見ても小早川秀秋は動こうとしませんでした。>>続きを読む |
8.松尾山ついに動く |
再三の要求にこたえず動かなかった西軍、松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返りました。戦局は大きく動きます。>>続きを読む |
9.裏切りに次ぐ裏切り〜大谷吉継、憤死す〜 |
小早川秀秋の裏切りに呼応して、大谷隊の配下であったはずの脇坂安治隊が背後から大谷隊に攻撃。さらに、朽木、小川、赤座の諸隊も裏切り加担して、大谷隊は壊滅していきました。>>続きを読む |
10.小西行長、宇喜多秀家、石田三成・・・逃亡 |
大谷吉継が敗れ、次に浮足立ったのは小西行長隊です。四千の兵力で戦いに挑んだ小西行長隊も、小早川秀秋の裏切りに動揺し、一気に崩れ、行長自身も逃亡する羽目になったのでした。>>続きを読む |
11.島津の敵中突破 |
西軍が総崩れになり、ことごとく戦線を離脱する中で、最後に取り残された島津隊は、逃げ遅れて集中攻撃を受けました。そこで、退行するのをやめ、あえて正面の家康がいる本陣の横をかすめて、伊勢街道の方へ逃亡をはかりました。これが、有名な「島津の敵中突破」です。>>続きを読む |
12.東軍の勝利 |
討ち取られた西軍の首級は、家康の陣地である陣場野へ届けられました。現場には、首実検に先立って、血や土を洗い落とした時に使われたといわれている井戸も残されています。>>続きを読む |
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