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 関ヶ原の戦い
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小早川秀秋の東軍への寝返りがきっかけで一気に東軍優勢となり、石田隊は集中攻撃を受けました。
■午後0時半から1時ころ

脇坂安治陣跡

 
裏切りに次ぐ裏切り〜大谷吉継、憤死す〜

小早川秀秋が側面の大谷吉継隊に攻めかかった際、あらかじめ小早川秀秋の裏切りを予測していたこともあり、予備の兵力を温存していました。

小早川隊が松尾山を逆落としにて下ってきた際、大谷吉継は一度は撃退しました。この時、小早川隊に派遣されていた家康の重臣、奥平貞治は討死。小早川隊の損害は、370余りだったということです。

また、大谷吉継の隊に従軍してた島清正(三成の家老、島左近の四男)は、小早川隊とともに攻撃してきた、藤堂隊の将、藤堂玄番を討ち討ちとりました。

しかし、さしずめの大谷隊も、この直後に起こった予期しない事態によって崩れてしまいます。


 この時に、大谷隊の配下であったはずの脇坂安治隊が背後から大谷隊に攻撃してきたのです。さらに、朽木、小川、赤座の諸隊も裏切り加担して、大谷隊は壊滅していきました。

 脇坂安治は福島正則や加藤清正らと同じ賤ヶ岳七本槍の一人だった人物です。東軍の藤堂高虎らとと通じていた安治は、小早川隊の寝返りを願ってもない好機とみて、東軍が優勢となるころ合いを見計らって大谷隊に攻撃を仕掛けました。

 それまでは戦況がどちらに転ぶかを固唾をのんで見守っていたに違いありません。関ヶ原の戦いに於いて、真に豊臣家、徳川家のために戦った部隊はどれほどいたのでしょうか。小早川隊や、脇坂、朽木、小川、赤座などの諸隊の講堂をみると、「お家存続のため」に東西どちらかの軍についただけであり、豊臣家や、徳川家に忠義を尽くしてたとは言い難い気がします。

 平塚為広、戸田重政などの大谷隊の諸将も『関ヶ原合戦図志』にあるようにまさに
「死憤の兵」となって戦いました。

 戸田重政は子の内記とともに、織田勢(信長の弟、有楽斎ら)に討ち取られ、また、平塚為広は、自軍の敗北を見届けると、討ち取った敵の一人の首級に

「名の為めに捨る命は惜からじ 終に留まらぬ浮世と思へば」

と和歌を残して戦死。その和歌は大谷吉継に届けられ、これを見た大谷吉継も自刃。ここに大谷隊は壊滅したのでした。



決戦地


小西行長陣跡

 
小西行長、宇喜多秀家、石田三成・・・逃亡

大谷吉継が敗れ、次に浮足立ったのは小西行長隊です。四千の兵力で戦いに挑んだ小西行長隊も、小早川秀秋の裏切りに動揺し、一気に崩れ、行長自身も逃亡する羽目になったのでした。

さらに、宇喜多秀家隊も同様。また、西軍の実質的な総大将である石田三成も戦線離脱。北国街道沿いに近江方面へ逃亡していきました。

ただ、石田三成も宇喜多秀家も逃亡とはいえ、佐和山城(三成の居城)や大坂城でもう一戦と考えていたということです。ただ、実際は三者とも後に捕まり、石田三成と小西行長は討首。宇喜多秀家は八丈島に流罪となりました。

ちなみに、宇喜多秀家の居城だった岡山城には戦後の論功行賞で小早川秀秋が入城することになりましたが、まもなく死亡。世間は大谷吉継の祟りと噂したそうです。

ちなみのちなみに、八丈島に流された宇喜多秀家はその後、83歳という長寿を全うしました。

こうして東軍の勝利が確定。しかし、まだ関ヶ原の戦いは終わりません。最後に戦場に取り残された形になった島津義弘隊。島津隊は、東軍諸隊の集中攻撃にあいます。

九死に一生を得るため、島津義弘の決死の逃亡劇がはじまります。


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