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 関ヶ原の戦い
(決戦関ヶ原) 決戦関ヶ原 | 動かず
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西軍の動きはぎこちないものでした。南宮山の毛利らは動こうとしません。松尾山の小早川秀秋も同様。さらに・・・
■午前11時ころ

島津義弘陣跡


石田三成陣跡

 
島津隊動かず

 石田三成の隊は細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、黒田長政らから集中攻撃を浴び続けています。笹尾山の柵の中に追い詰められた格好となっています。たまらず、笹尾山の隣に布陣していた島津義弘の陣へ、三成は家臣の八十島助左衛門をつかわして加勢を頼みに行かせました。

 八十島助左衛門の要請に島津義弘はこう答えます。

「馬上からの口上、無礼千万」

 というわけで、今度は三成が自ら赴いて要請しました。島津隊の島津豊久がこれに答えます。

「前後左右の隊の戦いを顧みている暇はない」

 三成はここで島津隊に参戦を乞うことをあきらめます。もう少し、がんばって丁寧に請願すればよかったのかもしれません。ただ、尊大な三成はそのような行動をとることができなかったのかもしれません。

 そもそも、島津義弘ははじめは東軍につくつもりだったということです。そこで、東軍の鳥居元忠が守備する伏見城へ入るつもりでしたが、元忠は自分たちだけで玉砕する覚悟を持っており、入城を拒否。そうこうしているうちに西軍につかざるを得なくなりました。

 そうすれば、今度は西軍に勝ってもらわなくてはなりません。ところが、実質的な西軍の総大将、石田三成は、なかなか自分の進言を受け入れてくれません。墨俣で東軍と対峙していいる時には、三成が島津隊を置き去りにして逃げ去ったり、家康が到着した9月14日(関ヶ原の戦いの前日)には夜襲を献策しますが受け入れてもらわなかったりするなど、戦意を失わせることが続いたのです。

 三成は、島津隊に加勢を求めることをあきらめて、南宮山と松尾山に向けて狼煙を上げさせました。それぞれの山に布陣する西軍諸隊に攻撃の要請をするためでした。



 
宰相殿の空弁当

 石田三成が陣取る笹尾山からの出陣要請の狼煙は、毛利秀元らが布陣していた南宮山の別動隊からも見えたことと思います。合戦前の打ち合わせで、狼煙が上がったら山を降り、関ヶ原の東方から徳川家康を攻撃する手筈となっていたのです。

 笹尾山から上がった合図の狼煙を見て、一部の将兵が、さぁ出陣と動き出そうとします。その時に、南宮山の主力、毛利秀元隊の前に陣取っていた吉川広家が、

「動くことまかりならぬ」

 といって兵を動かすのを禁じました。実は、吉川広家は毛利家の本領安堵を条件に西軍の味方をして東軍に攻め込むことはしないと密約を交わしていたのです。広家は、同様に毛利秀元隊が山を下ろうとするのにも道を開けようとしませんでした。

 毛利にとってみれば、西軍が勝利した場合はもちろんのこと、東軍が勝利した場合でも本領を安堵されることになるわけで、関ヶ原の戦いに「傍観」することは家名の存続にとって実に都合のよいことになるわけです。

 狼煙が上がっても山を下りようとしない毛利隊に対して、同じく南宮山に布陣していた西軍の長束正家は使者を毛利秀元のもとへ送りました。秀元は、前方を吉川広家にさえぎられているので出陣がかなわず、

「いま兵たちに食事をさせている最中なので・・・」

と言い訳して時間をかせぎました。これが「宰相殿の空弁当」と後に評される出来事になります。結局、出陣の機会を失った南宮山の諸隊は一度も戦闘に参加することなく、関ヶ原をあとにすることになりました。



松尾山
小早川秀秋陣跡

 
松尾山も動かず

 笹尾山の石田三成からの出陣の合図である狼煙は、松尾山に陣取っている小早川秀秋にも見てとれました。しかし、小早川秀秋は今だ動こうとしません。松尾山の小早川隊は15000もの大軍で、宇喜多秀家隊同様、西軍に主力となるはずでした。しかし、再三の出陣を合図する狼煙を見ても小早川秀秋は動こうとしませんでした。

 実は、小早川秀秋も東軍と、「機を見て西軍を裏切り、東軍にくみする」ことを密約していたのです。しかし、戦闘が始まって数時間、今だに戦いの趨勢がはっきりしないので、小早川秀秋はどちらに味方しようかと迷っていたのです。
>>裏切り 

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