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082-6若き日の織田信長像
【島原城】若き頃の織田信長像です。同じものが岐阜公園内にもあります。
(長崎県島原市)
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082-7天守閣2
【島原城】天守閣は、元和2年(1616)の築城時から明治8年(1875)の破却まで存続し続けました。外観は破風が一切無く、どこか単調に見えますが、その分他のお城にはない特徴を持っているといえます。現在の天守閣は古い絵図などを参考に昭和39年(1964)再建されたそうですが、築城時には海鼠壁が四層目まであったらしいなど、あまり正確ではないとのことです。
(長崎県島原市)
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【島原武家屋敷】
083-1島原鉄砲町武家屋敷
【島原武家屋敷】中央に用水溝が流れています。幅は70cmで周りは石垣で固められています。この水は湧き水で飲料水としても利用されていました。回りは石を積み上げた塀で囲まれていますが、防御としての意図もあったことでしょう。
(長崎県島原市)
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083-2佐久間邸跡
【島原武家屋敷】佐久間家は、二代藩主松平忠雄公時代に、知行高100石とこの地に屋敷を下賜されました。時の当主、佐久間太郎左衛門の名を代々佐久間家は世襲しました。
(長崎県島原市)
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083-3鳥田邸
【島原武家屋敷】鳥田家は藩主松平氏の転封に伴って、三河国吉田、そして丹波国福知山を経て寛文9年(1669)、島原に入りました。地方代官や郡方物書、材木奉行などの要職を歴代にわたり多くの重職につきました。
(長崎県島原市)
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083-4時鐘楼
【島原武家屋敷】藩主松平忠房公は、民に時を告げるために、ここに鐘楼を築いて、延宝3年(1675)豊後高田の知工、藤原正次に巨鐘を鋳造させました。島原の人々には、おかみの鐘として親しまれていましたが、昭和19年(1944)に太平洋戦争のために供出されました。昭和55年(1980)に復元されて現在に至っています。
(長崎県島原市)
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【歴史人物3】
084-1 011トーマス・グラバー
【歴史人物】(1838.6.6~1908)スコットランド(イギリス)のブリッジ・オブ・ド-ンに生まれました。1859年、長崎にやってきて、グラバ-商会を設立し貿易業を営みました。日本人妻ツルを娶り、倉場富三郎とハナの二人の子に恵まれました。また、ジャパン・ブルワリ・カンパニ-の設立にたずさわって「キリンビ-ル」を発売しました。のちに三菱合資会社に招かれて顧問となりました。
(長崎県長崎市)
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084-2 012倉場富三郎
【歴史人物】(1870~1945)トーマス・グラバーと日本人妻のツルの長男として長崎に生まれました。倉場という苗字は「グラバー」からきています。アメリカに留学し、長崎に戻った後はホーム・リンガー商会に入社しました。また、彼はグラバー図譜とよばれる魚類図鑑をつくりました。イギリス人と日本人の混血として生まれたこともあって、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと、「内外クラブ」という外国人との親睦団体をつくり、日本初のゴルフコースである雲仙ゴルフ場の設立に携わりました。しかし、第二次大戦が始まってからはスパイの容疑をかけられたり、妻のワカが急死したりと不幸が続きました。そして、終戦直後、自ら命を絶ちました。
(長崎県長崎市)
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084-3 013板垣退助
【歴史人物】(1787.4.17~1919)自由党の設立者。旧100円札の肖像にもなりました。土佐(高知県)に生まれました。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いや会津若松城攻城戦に参加しました。明治維新後の明治4年(1871)に参議に就任しました。しかし、新政府が薩長中心の人事配置であることを不満とし、高知で立志社を設立して自由民権運動をおこしました。明治15年(1882)、岐阜の中教院前にて刺客に襲われ、とっさに「吾死スルトモ自由ハ死セジ」という有名な言葉を発したといわれています。この像はその板垣退助が遭難した岐阜にあったものです。
(岐阜県岐阜市)
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084-4 014尾崎行雄
【歴史人物】(1858.11.20~1954)相模(神奈川県)で生まれました。第一回衆議院議員選挙以来、当選25回、実に60年以上も代議士を務めました。桂太郎内閣のときに犬養毅らと憲政擁護運動(護憲運動)をおこしたことで有名です。また、文部大臣、司法大臣、東京市長などを歴任しました。明治・大正・昭和の三つの時代にかけて日本の政界に携わり、憲政の神様といわれました。
(東京都千代田区)
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084-5 015山田顕義
【歴史人物】(1844.10.9~1892.11.11)長州(山口県)に生まれ、吉田松陰の松下村塾に学びました。幕末は尊皇攘夷運動に活躍し、また戊辰戦争・西南戦争に従軍しました。また、岩倉使節団に参加して欧米を視察して見聞を広げました。明治維新後は司法大臣を務め、また日本法律学校を設立しました。これは現在の日本大学にあたります。他にも、国学院など多くの学校の創設に携わりました。
(東京都千代田区)
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【国宝建築1】
085-1姫路城天守
【国宝建築】姫路城天守は三つの小天守とそれらを結ぶ渡櫓がありますが、それらも国宝に指定されています。現存する天守群は、慶長14年(1609)に完成しました。
(兵庫県姫路市)
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085-2犬山城天守
【国宝建築】明治24年の濃尾震災で半壊した際に、旧犬山藩主の成瀬正肥に城を修理するという条件で払い下げられました。以後、日本唯一の個人所有のお城になりました(平成16年4月1日より、(財)犬山白帝文庫に所有者が変更)。国宝指定は昭和27年3月29日。
(愛知県犬山市)
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085-3彦根城天守
【国宝建築】三層三階の天守は、慶長11年(1606)に完成しました。牛蒡積みとよばれる独特の石垣の積み方をした天守台の上に建っています。唐破風・千鳥破風・切妻破風など、多くの屋根様式を巧みに組み合わせた美しい外観をしています。天守に付属する附櫓及び多聞櫓を含めて、国宝に指定されています。
(滋賀県彦根市)
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085-4松本城天守
【国宝建築】正面の最も高い建物が天守です。そして、それを囲むように乾小天守を渡櫓で連携し、辰巳附櫓・月見櫓を複合した、連結複合式天守とよばれる分類に入ります。これら、大小の天守、二棟の櫓および渡櫓が国宝に指定されています。文禄2~3年(1593~94)頃の建築(月見櫓は寛永11年(1634)頃)とされています。
(長野県松本市)
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【富貴寺】
086-1富貴寺
【富貴寺】蓮華山富貴寺。宗派は天台宗延暦寺派です。大分の豊後高田市にあります。国東半島内の山奥にある小さなお寺。このお寺が有名なのは九州でも最古といわれる国宝の大堂(おおどう)があることによります。富貴寺大堂は、日本三大阿弥陀堂のひとつです。日本三大阿弥陀堂は他に、平等院鳳凰堂(京都府)と中尊寺金色堂(岩手県)。寺伝によると養老2年(718)に仁聞菩薩によって創建されたとされています。
(大分県豊後高田市)
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086-2入口
【富貴寺】富貴寺の入口です。両脇には仁王像があります。石造りです。
(大分県豊後高田市)
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086-3大堂1
【富貴寺】正面から撮影しました。竹田番匠がかつてこの地にあった高さ970丈もある大きなカヤの木一本だけでつくったといわれています。仏像もその木でつくられたといわれています。ただ、1丈(10尺)は約3メートルなので、高さは3000m近くにも及びますから、伝説上のことといえそうです
(大分県豊後高田市)
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086-4大堂2
【富貴寺】12世紀の建築とされる大堂は阿弥陀如来像(重要文化財)をまつる阿弥陀堂です。本尊の背後には法隆寺金堂の壁画にも似た壁画が描かれています。内部の保護のため天候が悪い時は見学できません。正面は3間、側面は4間で宝形造とよばれる様式に属します。昭和27年に国宝に指定されました。
(大分県豊後高田市)
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【北野天満宮】
087-1北野天満宮
【北野天満宮】祭神は学問の神として有名な菅原道真。ここは「北野の天神さん」として親しまれています。藤原氏の陰謀で大宰府に左遷された菅原道真の死後、都ではその怨霊がでるとうわさされていました。実際、天皇の死など不幸が続き、人々は道真の霊を鎮めるためにこの神社を造営したといわれています。本殿は国宝に指定されています。
(京都府京都市上京区)
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