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  • 第51番 安土城
  • 100名城スタンプ設置場所;

    滋賀県立安土城考古博物館(月曜休館)・安土城天主信長の館(月曜休館)・安土町城郭資料館(月曜休館)・上記休館日は安土城跡入場券売場

    スタンプの図柄は大手道からのアングル

☆☆☆ 織田信長が築いた巨大城郭、わずか数年で焼失した幻の城でもある

第3話 安土城

< 02話 観音寺城 | 04話 和歌山城>

 

安土城復元建物 @信長の館

安土城はいわずと知れた織田信長が築城したお城。安土山の頂上に豪華絢爛な天主閣があったといわれているが、本能寺の変の直後に焼失してしまった。今は往時を想像させる石垣や礎石の遺構を残すのみだが、近年大規模な発掘調査(および整備)が進められ、安土城の全貌が明らかになりつつある。特別史跡にも指定されている。

安土城へは、(確か)平成6年(1994)に旧滋賀県安土城郭調査研究所の職員の方による案内で訪れて以来、何度もやってきている。当時は、大手道でさえも険しく、現在のように整備されていなかったと記憶している。すなわち、安土城に本格的にメスが入ってのはつい最近のことで、今後さらなる大発見により、安土城のことが解明される可能性がある。

大手道

 

一直線に伸びる大手道 

安土城跡に登っていくためには、現在は2か所のルートがある。すなわち、大手道経由で登っていく道と、総見寺の三重塔や仁王門などを経由して登っていく百々橋口経由の道である。

前者の方が一般的で、駐車場が大手道の目の前にあり、簡単に本丸まで登っていくことができる。ただ、入口にはゲートができていて有料になっていた。実は、先の観音寺城(第2話参照)と同日で、観音寺城で十分につかれていたので、本丸までの往復にとどめようと考えていた。したがって、百々橋口にも同様のゲートがあるかは確認はしていない。

 

安土城を築城した織田信長は、それまでに全国にあった他のお城とは全く違ったお城をつくるつもりだったようである。それがこの大手道に表現されている。大手道を見るとまっすぐ山の中腹まで伸びているのだ。防御としての役割を持つお城としては攻めるに易い構造であることは容易に想像がつく。信長はなぜこのような一本道を城郭に採用したのだろうか。

信長はもともとから防御のためのお城を造るつもりは全くなく、居館としての役割を重視していたといわれている。とはいえ、信長がそれ以前に居城としたお城は岐阜城をはじめ山城が多かったですので、完全に防御目的から外れたお城を造るつもりでもなかったということである。

 

伝・徳川家康邸跡 

また、この大手道の両側には重臣たちの屋敷があったとされており、羽柴(豊臣)秀吉、前田利家などの邸宅跡がある。徳川家康邸跡とされたあたりは、総見寺の本堂が大手道をふさぐようにあったが、発掘調査によってそこにあった建物は移築されている。平成6年に初訪問した際は、確かこのあたりの道は整備されておらず、大手道にはみ出して本堂の土壇があったように記憶している。

大手道の両端には観音寺城の石段にもあった側溝の遺構も見つかっている。このように、現在までの発掘調査の成果によって、大手道の全容はほぼ解明ができている。

 

転用石 

さらに、大手道にある石段には石仏や墓石を転用したものもあり、現在でも確認することができる。神仏を恐れない信長らしい転用の仕方である。それが現在までそのまま見られるようになっているのは珍しい。信心深いわけではないが、さすがにこのような転用石を踏むことは気が引ける。

 

石仏 

 

伝 羽柴秀吉邸

 

復元イラスト(羽柴秀吉邸) 

 

戦国時代は所領をもつほどの家臣ともなれば、支城や居館をそれぞれの封土に築いて、そこで生活し、特別な時にだけ主君のところに参上するという場合が常識だったはずである。しかし、安土城には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や前田利家、徳川家康などの屋敷跡が伝承地とはいえ存在している。この点も、安土城がそれまでのお城と違う点である。つまり、信長は家臣たちを城下に住まわせるという当時では常識外れなことをやっていたのだ。しかし、これがその後のスタンダードになっていく。江戸時代に渡って、大名つまり幕府の家臣たちは、江戸の城下に屋敷をもっていた。

下段から上段の主殿跡を見る/櫓門の遺構がみつかった下段入口 

伝 羽柴秀吉邸跡の碑/主殿跡 

隅櫓跡/大手道から上段 

伝・羽柴秀吉邸跡は上下二段の郭にわかれており、主殿(母屋)のあった上段には高麗門、厩のあった下段には一階を門、二階を渡廊下とする立派な櫓門があったといわれている。また上段には重層の隅櫓があったとされており、当時の武家住宅の造りをうかがい知れる貴重な遺構となっている。


 

前田利家邸/武井夕庵邸 

羽柴秀吉以外にも主だった大名の屋敷跡がこの大手道沿いにはあった。確認できるのは、他に前田利家邸、徳川家康邸、武井夕庵邸など。

 

 

大手道は最後まで登ってくると左におれて、安土城の中枢まで繋がっていく。広々とした一直線に伸びる道が、安土城を特徴付ける道である。安土山の頂上にそびえる天主(天守)に向かって伸びる、遠くからでも確認できる道だったであろう。

 

 

安土城の中枢部

 

黒金門跡 

安土城の中枢部は主郭という。

この主郭の南西出入り口にあたる部分には桝形構造をもつ黒金門という門があった。大手道を登ってきて、主郭に到達するときに出会う主要な門である。この付近の石垣の保存状況はとてもよかった。また、桝形をしており、防御の機能も十分にあったと考えられる。ここから先が、安土城の中枢部となる。

 

主郭地図(各部の名称は貞享4年(1687)「近江国蒲生郡安土古城図」による) 

貞享4年(1689)に作成された「近江国蒲生郡安土古城図」による各部の名称付きの地図。なにせ、信長によって完成を見た直後に本能寺の変である。そしてまもなく謎の出火によりことごとく焼失してしまっている。一説には、この主郭部分は一連の建物で繋がっており、建物の中を移動するように天主まで到達することができていたという噂もある。

 

貞享4年(1687)「近江国蒲生郡安土古城図」 

案内板を撮影したもの。貞享4年(1689)に作成された「近江国蒲生郡安土古城図」による各部の名称付きの地図。二の丸には朱書きで「御廟」とある。織田信長の廟所であるが、これは現存している。

 

 

黒金門をくぐった正面の石垣は二の丸跡の石垣だが、安土城が焼失した時の跡とうかがえるような赤くこげた石垣がみられる。このことはガイドの方も言っていたので、間違い無いと思う。もう一つの写真は、長谷川邸なるエリアにあった墓石群。ちなみに織田信長の廟所である二の丸はここより一段高い場所にある。

 

二の丸へ 

 

 

この二の丸には織田信長の廟所があるが、これは秀吉が建立したと伝えられているものである。

 

 

本丸跡は千畳敷とよばれ本丸御殿があったところと考えられている。発掘調査によると、碁盤目状に配列された119個の礎石が発見された。

これらの礎石の配置から、中庭をはさんで三つの建物が存在していたと考えられていますが、これは天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることが分かっている。織田信長に関する第一級の史料である『信長公記』によると、この建物の中には皇居の間があったといわれていることから、信長は安土城への天皇行幸を企図していたということがいわれている。

清涼殿のような建物があったとは現在の様子からは想像もつかないが、あの信長のことなので、まんざら嘘では無いような気もする。

 

いよいよ天主閣跡 

写真は本丸北にある天主取付台という郭から天主へと登っていく階段。ここが安土山で最も高い部分になるが、穴蔵となっている地下部分につながっていることもあって、眺めはさほど良くない。さらに身長くらいある石垣上から北側を望むとやっと美しい眺望が開ける。

 

天主閣(天守閣)跡

詳細な天守の礎石が描かれた図

 この天守台上に建っていた天主閣は完成からわずか3年後の天正10年(1582)に焼失してしまった。ただ、太田牛一の『安土日記』やルイス・フロイスの『日本史』など当時の人々が残した資料や加賀藩のお抱え大工に伝わる『天守指図』という資料があり、それをもとにかなり詳細な形状まで明らかになっている。

通常なら「天守」と表記するところを安土城は特別に「天主」と表記する。この図や天守自体には特筆すべき特徴があるので記しておく。

 

1.天守台が不等辺多角形

 通常であれば天守は長方形または正方形であるため、このように不等辺多角形の天守台は相当珍しい。同様に不規則な形の天守台を持つお城として思いつくところでいえば、岡山城くらいであろう。山城の石垣には、地形に合わせて多角形の石垣をしばしば見かけるが、このように天守台が不規則な形をしているのは、非常に珍しい。

2.中央に礎石がない

 これを元にひょっとしたら天守内部は吹き抜けになっていたのではないかともいわれている。

3.そもそもこれほど詳細にわかっているのはなぜか

 近年発見された史料「天守指図」による。これだけ詳細な絵図があれば、復元も可能ではないだろうか。

 


 

琵琶湖を望む 

天主から琵琶湖を望む。実は、安土城以降のお城の天守は基本的に人が住むためのものではなかった。城主は、御殿に住むのが一般的であったといわれている。しかし、織田信長は天守に居住していたという。この景色も見たことがあったはずである。ただし、当時の琵琶湖はもっと安土山までせまっていたということらしいので、眼下に広がる田園風景は全て湖だったのかもしれない。

 

信長の館

 

「安土城天主 信長の館」は、安土山からすぐそばにある博物館。

太田牛一の『安土日記』、ルイス・フロイス『日本史』そして『天主指図』などをもとに復元された安土城天主の5・6階部分が展示されている。もともと、1992年のスペイン・セビリア万国博覧会の日本館メイン展示として出展されていたものを、万博終了後、安土町が譲りうける形で保存展示されている。

本当にこんな天主があったとなれば、現存、復興復元問わず、おそらく天下一。いかに特別史跡であろうと、これだけ精巧な設計図があるのであれば、ぜひ忠実に再建して欲しいものである。あとは費用の問題か・・

信長の館は「日本100名城スタンプラリー」のスタンプ設置場所でもある。大手道入口かここでスタンプを押すことができる。

 

 

( 2009年(平成21年)3月15日 訪問 )

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
交通

 

公式サイト  
別名 安土城
城郭構造 山城
天守 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存)
築城主 織田信長
築城年 天正4年(1576)
主な改修者  
主な城主 織田氏
文化財指定等 日本100名城(51番)
国指定特別史跡

 

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